第 二 章  ポルノ小説殺人事件 (4)





 それでも、内部は七分どうり埋っていた。

 淡い照明と、テーブルの燭台がうまく調和している。奥のほうで、いつものピアノが

鳴っていた。女の子は七、八人いて、それぞれに売れる個性の持ち主である。だが女性を

同伴してもさしつかえない程度に、披女たちは控えめであった。

 客は、俺の知っている顔もあリ、知らない顔もあった。ポヅクスには、顔見知りの映画

監督と女優のグループがすこし騒がしい感じで、あとは会社の重役風、写真家らしいラフ

な長髪の若い男…。

 カウンターに、俺が大嫌いな先輩の剣豪作家がいた。気が弱いくせに助平で、小説には

ばかに強すぎる主人公ばかり書くのでおかしかった。むこうも、俺のポルノ小説が気に

喰わなかったに違いない。

 入り口の横に立って、俺はたんねんに店のなかを見まわしてみたのだったが、意外な

ことには、美歌と夕子の姿だけがなかった。

 夕子はアルバイトだから、もうやめてしまったとしても、美歌は、二年ごしこの店の

ナンパーツーだったのである。そう簡単にやめてしまうとは考えられない。俺は空いている

席にすわって、暫らく待ってみたが、やはり、二人が現れる様子はなかった。

 本当にいないのだとわかると、俺は急に胸さわぎをおぽえた。殺された夜、最後まで

俺とー諸にいたのが、この二人なのである。言いかえれぱ、美歌と夕子は、あの時、犯人と

一番近い位置にいたのではなかっただろうか…。二人が同時に消えてしまったところに、

俺は単なる偶然ではないものを感じた。

 他人が飲んでいるのを、ぼんやりと眺めているのもしやくにさわるので、カンバン近く

なったらもう一度のぞいてみようと思って、俺は“きやら”を出た。ゴーストになって

銀座をぶらつこうとは、夢にも思わなかった。

 雨あがりの銀座は美くしかった。ラッシュアワーと違って、人通りもそれほど多くない

のが、かえってムードをもり上げている。おもて通りまで来て、俺はやっとのことで咽喉

に灼けつくような水割りの誘惑から解放されることができた。

 生きている時には無関心であったが、たくさんの店には、それぞれの工夫がこらされて

いて、シャバヘの郷愁をそそる。品物のひとっぴとつを手にとってみたいと思う気持は、

ゴーストになったものでなければわからないであろう。

 俺は何とかして、サトミも一緒に連れてきてやりたいと思った。

 しかし、宿無しのサトミには、シャバヘの通用門がなかった。今では、その力さえ残さ

れていないのである。堅い一枚板の寝台にうづくまって、ただひたすらに俺を持っている

であろうと思うと、全身が締めつけられるように辛い。俺は銀座のおもて通りを、若い女

がほしがりそうな化粧品や、靴やハンドバックのショーケースばかり覗きこみながら歩いた。

以前には、とうてい考えられなかったことだ。

 ふと、次のウインドの前で足がとまった。

 そこは、ある電器メーカーのショールームになっていて、店はもうしまっていたが、

ウインドに新製品らしい大型のテレビが据えられ、ちょうど日東テレビの番組を放映していた。

深夜なので、おとな向きのショー番組であった。

 大胆なポーズで、若い女の子が歌っている。昨年テビューしたばかりの、河井みゆきと

いう新人である。何しろウインドの向うで画像だけが動いているので、声は聞こえなかっ

たが、テレビを見るのも一ケ月ぶりであった。

 俺は、その画面とサトミとをダプらせてみた。

 年もだいたい同じくらいであろうか、だが、サトミの抜群の美貌は、こんなオナペット

みたいな歌手にくらべて、はるかに上であった。銀の糸のようなサトミの歌声を、俺は

シャパの連中にも聞かせてやりたいと思った。

 サトミにも、きっと大きな夢があったに違いない。その夢を無残に剥奪してしまった人間を

俺は許せなかった。サトミヘの愛にかけて、俺はこの手で必らずそいつの正体を暴き出してやる。

 画面は、歌が終るとすぐにコマーシャルになった。あたらしい洋酒の宣伝だったので、

俺は何となく見てしまった。すると、次に玉石寿々子の顔がうつった。

 寿々子はひるまマンションを出た時の着物をきていた。日東テレビの車で出かけたのは、

この番組に出演するためだったのだろう。笑いながら、何かしきりにロを動かしている。

流石に、先程のオナペット歌手よりはましであった。

 そして、次に画面が変ったとき、俺は、あんなに吃驚したことはこれまでになかった。

 大型の画面いっぱいに、クローズアップもいいところで、突然、加奈子の顔が現れ、

こちらを向いてニヤニヤッと笑ったのである。俺は思わず一歩さがって、ハッと身がまえた

程だ。声が聞こえないだけに、その時の恐ろしさといったらなかった。

 これは、たしかにテレビなのである。いきなり加奈子が現われるというのは、俺は頭が

どうかしてしまったんじやないか…。

 息をのんでいると、下のほうに小さな文字がうつった。

  “ポルノ評論家・久留島加奈子さん"

 俺はもう、あきれかえって、ウインドのガラスにべったりとへばりついてしまった。

 亭主が死んでわずか一ケ月というのに、女房は、こともあろうにポルノ評論家を開業し

たのだ。笑ったのは俺に対してではなく、全国の助平男どもにむかって、破廉恥な笑いを

投げかけたのである。

 俺の名前は十分に知られていたから、その女房だった女ということであれば、たしかに、

ある意味での現実性があったのだろう。思いつきはともかくとして、その厚かましさと

いうか、たましさに俺は圧倒されてしまった。ようやく、番組は寿々子がホステス役とな

って、加奈子はゲストとして出演している対談コーナーのようなものだと、理解すること

が出来た。よくもまあ、しらじらしくも笑顔を絶やさずにしやべり続けられるものだ。

とくに、加奈子の化粧ぶりに至っては、まさに変身である。

 カメラは、それをさまざまな角度からうつしながら、これでもか、これでもかと、ほと

んど強制的に聊聴者を面白がらせようとしている。声が聞こえなくて良かった。もし何を

話しているか知ったら、俺は恥かしさのあまり、そのままゴーストタウンに逃げ帰って

しまったかもしれない。

 風に追われるように、俺はテレビの前をはなれ、あてもなく、夜の銀座を歩いた。

 あの、毒にも薬にもならないと思っていた女と、ポルノ評論家と、どちらが本当の加奈子

なのだろうか…。 19年一緒にいたが、俺はもしかしたら、女房を根本的に見誤ってい

たのかもしれない。

 銀座のルンペンは、幸せそうであった。彼は拾った箸で、ポリバケツの中から、寿司と

スパゲティを丁寧によりわけながら喰べていた。ゴーストの俺にとっては、山海の珍味に

まさる豪華な食事である。

 “きやら”にはカンバンの時間ぎりぎりに戻ってみたのだったが、美歌も夕子も、やは

り消えてしまったようであった。そして俺も赤べこも、客としては、もちろんもう二度と

姿を見せないのである。眼立たないようだが、“きやら”も少しづつ変ってゆくのだろうな。

 電車がなくなってしまうと、俺は銀座のど真ん中で野宿しなければならない。

 美歌のアパートはわかっているので、明日にでも訪ねてみることにして、俺は地下鉄に

乗った。今夜のねぐらとして、瀬川と一緒に寝るのは嫌であったが、阿佐ケ谷の自宅より

はまだましであろう。

 マンションに入ろうとして、俺はふと思い出した。爺さんのひき逃げされた現場が、す

ぐ近くだった。

 俺の小説のおかげで殺されたなどとたわごとを言っているが、いろいろと世話になった

ことを思えば、義理にでも、一度くらいは見ておかなければなるまい。

 俺は、マンションの裏手にまわった。

 そこには小さな駐車場があって、道も細く、昼間でもほとんど人通りのない場所であった。

俺だってこのマンションに住んでいながら、裏側にまわって見るのは初めてである。

爺さんは、この裏道に曲る角のところではねられたらしい。

 なるほど、ぼんやりしていると危い。車がすこしスピードを出していれば、年寄りには

避けきれなかっただろうと俺は納得した。見通しのよくない夜であったとすれば、尚更である。

 しかし、それと俺の「特別の小説」とは、まったく別の問題であった。どうこじつけて

みても、何かの関係があろうとは考えられない。俺はすぐに引き返して、マンションの

501号室の鍵をあけた。

 俺がシャバに出たのは、今回も午後からであったが、あわただしく、長い一日だった。

明日はまた、早く起きて美歌のアパートに行ってみることにしよう。死んでから、初めて

のシャバ泊りである。

 前に使っていたのよりずっと上等のやわらかいベッドの上に、俺はようやく手足をのばす

ことができた。だが、ウトウトしていたのは、ほんのー時間たらずのとだったと思う。

 突然、まぶしいあかりがつき、酒に酔っているらしい女の甲高い声が聞こえて、俺は

ベッドからころがり落ちた。間一髪、思いがけないほど大きな尻が、ドシンとクッシノョンを

揺った。まったく危いところであった。こんなのにもろに敷かれたのでは、たまったもの

ではない。

 「ああ、しんど…、みゆき、酔っちやった」

 と、その尻は言った。

 「もうダメ、先生、悪いかた…」

 「まあいいから、どうせ今夜はここが終着駅だ」

 答えるかわりに、みゆきは鼻をならした。それが、今夜テレビで歌っていたオナペット

歌手であることはすぐにわかった。

 もともと、あの番組は瀬川がプロデューサーをしている。こうなることは、おそかれ早かれ

予定の筋書きであろう。それからあとの二人の馴れあいみたいなやりとりは、馬鹿らしくて、

俺の時代おくれの小説のほうがよっぽどスマートだった。

 結局、二人は一緒に風呂に入った。バスルームから、時折りキャッキャッという、ひわ

いな女の笑い声が聞こえた。

 出てきた時には、どうやら酔いもさめかけてきたらしく、みゆきは、すこし青い顔をし

て言った。

 「いやだ、酔いざめかしら…、みゆき、何だか気持ち悪いわ。それに、ちょっと寒いみたい」

 「平気よ。横になっていればすぐになおるさ」

 瀬川は、歌手のへそのあたりにチュッと唇をつけると、そのままベッドに押し倒した。

 しかし、これがサトミと同じ年頃の娘のからだなのかな…。

 何の恥らいもなく、仰向きになったみゆきの肢態は、驚くほどもり上って張りきっている。

くろぐろとしたヘアのたくましさといったらなかった。生きているものと死んで

しまったのでは、こうまで違うものか…。

 みゆきは、暫らくぽんやりと天井を見上げていたが、やがて、鼻白んだ声で言った。

 「良いのかしら、みゆき、こんなことしで¨」

 「え、何が…?」

 「だって、このマンションには玉石先生もいるじやない」

 「関係ないね、みゆきには…」

 「でも今夜、スタジオで玉石先生が、ずごく怖く見えたわ!」

 「気にすんなよ、そんなこと・・・、第ー、僕と彼女とは全然・・・」

 「ちがう、ちがう…!」

 みゆきが顔の上で手を振ると、乳房がプルプルとゆれだ

 「セックスなんて誰とやっても自由だけど、うちが怖かったのは、正子のことよ」

 「・・・…?」

 「正子は、玉石先生のところで死んだんでしょう?」

 あっ、と瀬川の顔に、驚きのかげが走った。

 「みゆき、そんなこと知っているのか?」

 「だって、同級生だもの…」

 と、みゆきはこともなげに言った。

 「正子はねぇ、玉石先生のー番上の兄さんの子…、それは何て言うの?」

 「ええと、姪だ…」

  「それだったのよ。うちも正子も芸能界にあこがれていたけど、正子の両親が大反対で

やらせてくれなかったものだから、二人で家出しちやって、日車テレピのオーディション

をうけに来たの」

 「くには、何処だい?」

 「静岡…」

 「それで下の部屋に泊っていて、事故にあったんだな」

 「うちは東京に親類があったからいいけど…、正子は家に内緒で、玉石先生のところに

泊めてもらって、次の日がオーディションだったでしょう? 正子が来ないもんだから、

うち、一人で受けに行っちやった。そうしたら、うかっちやったのよ。まるで夢みたいな

気持ちだったけど、正子には、悪かったわ…」

 みゆきは本当に悲しそうな顔をした。

 「でもそりやあ、みゆきの責任じやないだろう?」

 「だって、みゆき落ちると思っていたの。正子のほうが才能あったもの。正子が来ない

とわかったとき、正直言って良かったと思ったのよね。みゆきって、悪い子ね」

 「………」

 「先生、正子を知らないでしょう?」

 「知らないねえ。美人かい?」

 「とっても良い子だったのよ。うっ…!」

 みゆきは、顔を覆った。咽喉がひくひくとふるえている。だが瀬川は、何か他のことを

考えているようであった。

 「あんなに楽しみにしていて、大切な前の日だったのに、正子は何故死んでしまったの

かしら、本当に事故だったのかしら…! 先生、うち、玉石先生が怖いの!」

 ギョッとして、瀬川が半身を起した。はだかのまま、みゆきはベッドからおりると、

ステレオの上に飾ってあった寿々子の写真をつかんで

 「嫌いよ、うち、こんな人…。玉石寿々子なんて大っ嫌い!」

 まだ酔っているせいもあろうが、いきなり、それを俺にむかって投げつけたのである。

 額ぷちの角が俺の胸にあたリ、実際にはその後にあった電気スタンドにあたって、大き

を音をたてた。

 「もういや1 先生抱いて、ねえ、みゆきを抱いて…1」

 俺は暫らくの簡、息がつまって動けないくらい苦しかった。ステレオの横で、俺は思わず

片膝をついた。胸を押さえて痛みをこらえながら、上限づかいにベッドを見た。

 みゆきが、獣のような声を上げて、瀬川に絡みついていた。

 サイドテーブルの電話が、けたたましく鳴り出しだのはその時である。ベルは七回、八回と

鳴りつづけた。十四、五回めになった時、瀬川は舌うちして受話器を取った。

 「モシ、モーシ…」

 下半身をみゆきの上に乗せたまま、瀬川は乱暴に言った。

 「ハイ、僕ちゃん…。えっ、なに? 冗談じゃありませんよ。いったいいま何時だと思

ってんの?」

 みゆきは、男の身体を腰でささえたまま息をころしている。

 「とっくに寝てましたよ。えぇ誰もいませんよ。え、なに? 今日の感想? 結構でした、

面白かったねえ。久留島のかみさんとわたりあったところなんざ、圧巻でした。だけどさ、

今日はもう寝かして頂戴、頼むから…!」

 瀬川は、一方的に電話を切った。

 「ぱっかじやねぇのかな、このしと…」

 「玉石先生だったんでしょう?」

 「どっかで飲んでるらしい、バンドがワンワン鳴ってた」

 「大丈夫? この部屋にこないかしら…」

 「来たって、開けねぇよ!」

 二人は、また動きはじめた。透明入閣であれば、それはちょっとした見ものだったに

違いない。だが俺はゴーストである。人間か生命的に最も高潮しているところで、それを見

つめ、じっと耐えつづけることは、苦痛以外のなにものでもなかった。

 感覚の中では、サトミと、みゆきと翠が重複していた。あの夜、新宿うらのラプホテル

で、翠もこうして激しいポーズをとったのだろうか…。そしてサトミが声もなく示す淡い

感動にくらべたら、みゆきは、まったく自由そのものであった。俺のポルノ小説なんか

題じゃない。最近では十七、八歳くらいの女の子でも、驚くほどよく知っているな。

 こうしてベッドは、あっさりと占領されてしまった。俺は膝小僧をかかえ、ステレオの

横に丸くなって、一夜をまんじりともせず明かさなければならない破目になってしまった。

 翌朝、窓の外がしらみはじめるとすぐに、俺は寝不足の眼をこすりながら、ふらつく足

をふみしめて501号室を出た。瀬川はいぴきをかき、みゆきは毛布を胸のところに抱い

て、もりあがった尻を惜しげもなく剥き出したまま眠リこけていた。

 ラッシュアワーは苦が手なので、その前に、六郷土手の近くにある美歌のアパートを

訪ねたかった。ここからうまく電車を乗りついでも、一時闇以上かかる。

俺は一日のうちで一香すいている早朝の電車のシートに、ながながと身体をのばした

 頭がまだどんよりと重い。だが、昨日一日の俺の行動は、決して無駄ではなかったと思う。

 瀬川という男は、女房の加奈子と、玉石寿々子を噛みあわせて、ブラウン管のなかで

晒しものにするような悪趣味な奴だ。加奈子はバカだから得意だったろうが、おかげで寿々子は

その後で大荒れに荒れたのだろう。瀬川のほうが、役者は一枚上のようであった。

そして、瀬川があの日の事故について、何故か興味をもっているらしいことも意外だった。

意外と言えば、オナベット歌手の河井みゆきが、利恵という寿々子の子供と一緒に死んだ

親類の娘と同級生だったとは、俺も初耳である。

 そのとき、急に老人の言った言葉が、頭の奥をかすめた。

「九月にガスの事故があって、このわしがひき殺されたのが今年の三月、先生が四月…、

怖ろしいことは、まだまだ起るかも知れんな」

 今は、五月の終りである。事実、この間に赤べこが殺され、美歌と夕子は”きやら”か

ら姿が消えてしまった。これから先、まだ何かが起るのだろうか。

 寝布足の霞がかかったような頭で、それ以上推理をつみ重ねることは、とうてい無理で

あった。

 六郷土手には、どうやら七時すこし前につくことが出来た。早くも通勤者の姿が、あわ

ただしく動きはじめている。

 多摩川が、河口近くなって六郷川と名前を変える。その堤防の土手から二、三分のとこ

ろに美歌のアパートはあった。派手な商売のわりには、質素な木造アパートの二階に、美

歌は住んでいた。夜おそくなった時、何回か送ってきたことはあったが、こんな時間に

訪れたのは、もちろん初めてである。

 半ば予期していたことではあったが、美歌は、やはり不在だった。新聞受けに、配達さ

れたままの新聞が溢れていた。

 俺は肩を落した。来て、いなかったらそれでお終いである。この時ほどゴーストの情け

なさを感じたことはなかった。仕方なく、俺は六郷川の土手にむかって歩いた。せめて、

河原でひと眠りすることでも出来たら、頭の痛さも少しは軽くなるかもしれない。

 俺は、堤防に上った。遠くに、小型の乗用車がとまっているのが見えた。朝早いのに、

人だかりがしている。俺はただならぬ気配を感じた。

「死んているんだってよ!」

 すぐうしろで子供の声が聞えて、野球のユニフォームを着た少年が駈け抜けて行った。

俺は、その後について、無我夢中で走った。街のほうから、パトカーのサイレンが近づい

てきた。

「さわっちやだめ! 覗いちやだめ…!」

 車の横で、近くの主婦らしい女が、両手を振りながら金切り声を上げていた。そんな

ことにはお構いなく、子供や通勤途中の若い男たちが、車のまわりに群らがっている。

 「わっ…」

 「すっげぇ!」

 彼らは窓から内側を覗きこんでは、口々に叫び声を上げた。なかには、とびのいて

しやがみこんでしまう子供もあった。

 「おい! 血だよ、血…!」

 「こいつはひでぇな。うぅっ、気持悪い!」

 「何だよ、あれ…。おい、あの紙は…?」

 車のなかで、人間か殺されていることは、間違いなかった。フロントガラスにも、点々

と赤いものが飛び散っていた。

 俺は、野次馬の間から首をのはして、内部を覗いた。

 運転席で、男が首から胸にかけて、ドロドロとした血の塊りのなかで死んでいた。

 見おぼえのある服装であった。オープンシャツに派手なチェック模様のベージュの

ブレザーを着ている。昨日の午後、久野久雄が第六茶房で着ていたものに違いなかった。

 俺は、我を忘れてフロントガラスにしがみついていた。

 久野久雄は、ガクッと上をむいて、シートから半分ずり落ちたような恰好で死んでいる。

だが顔は見えなかった。顔の上には、文字どうり、べったりと血糊をつけて、一枚の紙が

貼りつけられてていたからである。それは、原稿用紙であった。

  “ポルノ小説殺人事件"

 原稿用紙には、まさしく俺自身の筆跡で、ただ一行、そう書きしるされてあった。







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