第 三 章  十七歳のブルース (1)




 くる日も、くる日も、俺は歩きまわった。

 五月がすぎ、やがて毎日いやな雨が降る六月になった。それでも、俺は歩いた。結果

だけを言えば、すべてが徒労だったのである。偶然は、そうたびたび重なるものではない。

俺はゴーストの悲しさをいやというほど思い知らなければならなかった。

 体力が限界をこえ、疲労と睡眠不足と、いつも高熱にうなされているような、虚脱感

だけが残った。それを支えていたのは、ただただサトミヘの愛のみであった。

 阿佐ケ谷駅の若いゴースターとも、すっかり顔なじみになってしまった。俺は孤独に耐

えきれなくなると、よく、あの駅のベンチに行った。

 彼は、毎日23時57分の少し前になると、決って自分のゴーストタウンから出てきて、

じっと線路を見つめながら、電車のくるのを待っているのだった。いつ頃から続けている

のか、心のやさしい若者と話していると、俺は自分の気持もなぐさめられるような気がした。

ペンチに腰をおろして、ポツリポツリとお互いの話をするのも、俺にとっては、ささやかな

楽しみのひとつになっていた。

 「その人は、やっぱり久野久雄さんだったんですか?」

 若者は、その日も相変らず線路から眼を離さずに聞いた。しとしとと、カビ臭い雨の

降る夜であった。

 「そうだよ。よく切れる西洋カミソリで、右の頚動脈をスパッとやられていたんだ。

傷口は深さが一センチ以上はあったろうな」

 「誰が殺ったのかなあ」

 「車のなかが血の海だったわりには、犯人はなにも残していない。つまり、証拠がないんだ」

 「でも、原稿用紙は…」

 「あれは、私が小説の覚え書きの表紙に使ったものだ。自分で書いたのだから間違いは

ないよ。でもね、私はもう死んでしまったんだから…」

 たしかに、久野は俺にとっても、呪い殺してやりたいほど腹の立つ男だったが、

こっちが先に死んでしまったのでは、どう仕様もなかった。

 「あんな覚え書きがあることを知っていたのは、私と編集長くらいのものだ。その上

あの覚え書きは、不思議なことには、私が殺された直後になくなっていた。それがようやく

表紙だけ出てきたというわけなんだが…」

 「犯人が、持っていたのでしょうか?」

 「さぁ、まだ何とも言えないだろうが…」

 「車は、その人のだったんですか?」

 「そう、あいつの車だった」

そう言えば、久野久雄も、車を持ち、俺の仕事場をよく知っている入間の一人だったな。

その時、23時57分の電車が接近してきた。若いゴースターは、喰い入るように雨に

しめった線路を見つめている。

 「君は、いつからこうやっているの?」

 「もう、七年になります」

 若者は、微動だもせずに言った。

 俺は驚嘆した。この男は七年間、毎晩同じ時刻に同じ線路のー点を、凝視しつづけて

きたのか! 俺なんか、まだ半年にもならないうちに、もうガタガタである。気が弱わそうに

見えても、ゴーストの執念の凄さを、俺は教えられた思いだった。

 「僕には、これだけしか方法がないんです」

 電車が行!)でしまうと、若者は、低い声で言った。とリ返えしのつかない、後悔のひびきが

こもっていた。

 「だって、彼女がやったことは、犯罪ではないんですから…」

 「しかし、君…」

 「実は、まだお話してなかったんですが、彼女には、もともと一人になっても生きる権利が

あったんです」

 「それなら当然、君にだって…」

 「そういう意味じゃない。彼女は、妊娠していたんです」

 そうか…、女の胎内には、もうひとつの小さな生命があったのか。何故かわからないが、

俺は急に、スーツと血の気が引いてゆくような感じになった。

 俺は、できるだけ冷静に云った。

 「七年前というと、君は…?」

 「まだ高校生で、17才でした。彼女は21才で、年上だったんです。僕は、すごく

好きでした。それでとうとう子供が出来てしまって…、二人とも、お金がなかったんです」

 「どうして死ぬ気になんかなったんだね?」

 「彼女が、どうしても死にたいと言うものですから・・・。単純だったかもしれませんけど、

その時は精一杯でした」

 「しかしだねぇ、言い出しだのが女性のほうだとすれば、彼女にだって、十分に責任は

あるだろう」

 「そりゃ僕だって、心のどこかで、そう思っていたこともありました。でも僕には、

今になって、彼女があの晩ギリギリの瞬間に、死ぬのをやめようとした気持がわかるような

気がするんです」

 それはそうかもしれんが…、俺は、なぐさめようがなかった。

 「だからと言って、七年間も線路ばっかり見つめていても仕様がないだろうに…」 

 Γいいえ、これが一番の早道なんです。こうしているだけで、いつかはきっと、シャバに

戻れる筈です」

 若者は、自分白身に言いきかせるように言った。未来永劫に、無駄な努力かも知れない。

だが、あえてそれを積み重ねようとしている若者に、俺は深い感動をおぼえた。

 サトミも、17才であった。

 そして翠も、あのオナベット歌手のみゆきも、正子というみゆきの同級生もみんな17

才であった。

 俺は、自分の17才の頃を思った。俺は何をしていたのだったろう。

 そうだ。俺はその頃、生れてはじめて小説というものを書いたのだった。つけ焼刃の

左翼小説で、大人と子供が同居していた。女は、まだ知らなかったなぁ。 17才というのは、

何となく、奇妙な年頃なのだな。

 はっと気がつくと、若者は、いつのまにかゴーストタウンに帰ってしまっていた。

まもなく、終電車である。

 だが四谷のマンションは、俺にとって、もう安住できる場所ではなかった。瀬川は

次から次へと違った女を引っぱりこんでは、欲望のかぎりをつくしていた。ビフテキや刺身や、

リンゴやメロンを、ひと口食べては捨ててしまう。まるで喰い散らしているといった感じ

だった。あれでは、本当の女なんか、わかりっこない。

 寿々子とも、うまくいっていないようだ。写真もあれきり飾らなくなってしまった。

 今夜もあのマンションに泊らなければならないのかと思うと、ウンザリする。そうかと

言って、加奈子のけばけばしい寝姿を見るのも真っ平であった。

 あの馬鹿だか利巧だかわからない女は、今や生前の俺以上に有名人であった。不思議な

ことには、男性誌より、まず女性週刊誌がとびつき、テレビのピンク番組に出演し、

ラジオでは、主婦向きのセックス相談というのを担当していた。俺はおかしくって仕方がない。

 美歌がいれば、少しくらい遠くても俺は六郷土手の美歌のアパートに泊っていたろう。

俺がもし生きていたとしても、こんなとき、一番親身になってくれるのは、案外、美歌で

あったかもしれない。だが、美歌はあれ以来、一度も姿を見せいないのである。消息は、

まったく不明といってよかった。

 終電車が、行ってしまった。

 俺は、このまま訳のベンチで、朝を迎えようと思った。プラスチックのベンチは、堅い

一枚板の寝台より、まだひどい感じだ。背を丸くして、俺はやっとの思いで横になった。

ふしぶしが、また痛みはじめた。

 美歌が行方不明になった理由は、いったい何だろう。彼女のアパートに近い六郷の河原

で、久野久雄は、なぜあんな殺されかたをしなければならなか!)たのか…。そして、

ポルノ小説殺人事件という“特別の小説”の覚え書きは、いま誰が特っているのだろうか。

そんなことを、とりとめもなく考えているうちに、次第に意識が遠ざかって行き、俺は

ぐっすりと眠りこんでしまった。シャバのどこよりも、しめった駅のベンチが俺を安眠さ

せてくれたというのは、何とも悲しいことであった。

 気がつくと、朝になっていた。眼の上の丸時計ではー番電車にあと五、六分というところだ。

 雨はまだ降り続いている。全身に湿気がしみこんでしまった感じで、どうしようもない疲労と

倦怠感が滞っていた。起き上るのがやっとだった。俺は、あくびとも溜め息ともつかない、

大きな息を吐いた。

 ふと、まだおぼろな感覚の中で、すぐ横に、ゴーストではない生きた人間が腰かけているのを

感じた。そこはベンチの一番端で、もうひとつ席がずれていたら、俺はまともに下敷になって、

再起不能に
陥っていたろう。危いところだった。

 どこかで逢ったことがある。俺はその男の横顔を見た瞬間にそう思った。いつだったか、

それがどうしても思い出せない。男はおちつかない様子で、額に手をあてて考えこんだ

かと思うと、急にキョロキョロとあたりを見まわしたりしている。そのうちに、電車がきて

しまった。

 立ち上った後姿を見て、俺は、あっと思った。コマ劇場うらのラブホテルに、翠の背中を

抱いたまま消えた中年男の猫背がそこにあった。何を考える余猶もなく、俺は男の後を追った。

 ふたつめの駅は、中野だった。男は、そそくさと立ち上った。まだシャッターのおりている

商店街を急ぎ足で通りぬけると、左に曲った。また二、三分歩いて、すこし速度が落ちた。

男も、このあたりは初めてであったらしく、ひとつひとつの建物をたしかめるよう

にして歩いてゆく。やがて、立ち止ったところは、沢井病院という、個人だがかなり大きな

救急病院の前であった。

 男は、玄関の横にある急患専用出入口の赤いボタンを押した。俺は、急に胸さわぎが

してきた。なかから、宿直らしい眠むそうな看護婦の顔が現われ、二言三言話をして、ドア

が開いた。それが締まらないうちに、俺もあわててなかに入った。看護婦の後について、

男はなるべく足音を立てないように歩いてゆく。内部は、静まりかえっていた。

 看護婦が足を止めたところは、ー階のつきあたりで、ドアの上に“応急処置室"と出ていた。

なかに入ると、ふつうの病室とそれほど変ってはいない。白い壁に囲まれ、左右にベッドが

一台ずつ置いてあった。右側のベッドは空きで、左側に、毛布をかぶった女のバサバサの

黒い髪が見えた。

 「流産らしいですね」

 看護婦は、それほど心配そうな顔もせず、事務的な調子で男に告げた。

 「ゆうべ遅かったもので、まだ先生にはお見せしてありませんが、このままそっとして

おいて下さい」

 「大丈夫でしょうか?」

 「さあ、二、三日安静にしておいたら、良いんじやないです

 それから看護婦は、抱えていた台帳のようなものをひろげだ

  「あなたの、お名前は?」

  「え? はぁ、村上といいます」

  「御関係は?」

  「はぁあの、教え子でして…」

  「学校の先生ですか?」

  「そうです」

  「この子の親御さんに、連絡しなくても良いんですかね?」

 オールドミスらしい看護婦は、ベッドをジロリと見おろして言った。

  「いや! 誰にも言わないで…!」              ̄

 毛布をかぶったまま、それは、翠の声であった。何ということだ…。

  「本人もまぁ、ああ言っていますし、とにかく、私からよく事情を聞いた上で…」

  「そうですか。それならまぁ、結構ですけど‥・」            `

 何となく、割リきれない顔をしていたが、教師ということで、看護婦は認めたようであった。

鈍感な女だ。

 看護婦が行ってしまうと、村上は毛布を捲った。その下に、蒼白い翠の顔が、唇を噛ん

でいた。

 「どうしたんだよ、いったい!」

 教師は小声だが、叱りつけるような口ぶりで言った。

 「あんな時間に、電話をかけさせるなんて、非常識じゃないか。教え子が急病という

ことにして、やっとごまかして来たんだ」

 「ごめんなさい…」

 翠は、うらめしげに男を見上げた。

 「夜おそく急にお腹が痛くなって、我慢できなかったの。百合ちゃんが救急車を呼んで

くれると言うから、その時、電話もたのんで'¨」

 「百合ちゃんて、一緒に住んでいるという、その子かい?」

 間をおいてさしこみがくるらしく、翠はうなづきながら眉をしかめた。

その子のほかに、誰にも言ってないだろうね?」

 「言ってないわ」

 男は、露骨に安堵した顔に戻った。

 「流産だって?」

空いているほうのベッドに腰を下ろして、どうも納得ごきない、と首をひねった。

 「おかしいじやないか・・・、どうして妊娠なんかしちゃったんだろう」

 「わからない。そんなこと!」

 ざすがに、翠は怒ったような声を出した。

生理がなければ、気がつきそうなものじゃないか」

 「おくれていると思っていたの」

 「馬鹿だなあ…」

 村上という教師は、また、翠を責める声になって言った。

 「だからあれ程注意しろと、いつも言っていたろう!」

 俺は、自分の娘が可良そうでならながた。いったい、翠のどこに責任があるというのだ。

翠は黙っていたが、また痛そうに顔をしかめた。

 「でもまぁ、良かったじゃないか」

 これでもなぐさめているのか、村上は、煙草に火をつけながら言った。

 「これくらいなら、まぁ、たいしたことじゃない。もっと大きくなってから手術をする

のでは大変だからな」

 「手術?」

 「どっちみち、まだ産むわけにはゆかないだろう?」

 「そうね…」

 痛みがかなり激しいようだ。翠は、軽いうめき声をあげた。

 「先生、早くきてくれないかしら…」

 「まだだろう。九時すぎにならないと出てこないんじゃないか?」

 「早く来てくれないかなぁ…」

 男は灰皿をさがしていた。ここには無いとわかると、窓を細目にあけて、吸い殼を外に

捨てた。窓をしめ、翠の横にくると、いきなり毛布を胸もとまで捲った。翠は、ブラウス

を着たままで寝ていた。

 「駄目だなあ、こんなもの着ていては、身体に毒だ」

 ブラウスのボタンを外すと、手を背中にまわしてブラジャーを取った。上を向いている

ので、乳房はそれほど大きく見えなかったが、かたくて健康そうな、小麦色の胸であった。

教師はいきなり膝を折り、翠の乳房に口をつけた。翠は何の反応も示さず、眼をうつろに

あけて天井を見ていた。

 「先生、翠のこと、好き?」

 やがて、ポツンと言った。

 「好きだよ、ホラ、こんなに好きだ!」

 村上は、一層乳房にむしゃぶりついた。あたり一面をなめまわした。

 「さぁ、私はそろそろ行くからね。朝礼におくれるわけには行かないんだ」

 しばらくそうやっていて、ようやく顔を上げると、少し乱れた頭髪をかき上げながら言った。

 「今度、いつ来てくれる?」

 「明日のク方になるかな」

 男は毛布をもとに戻しながら

  お母ざんには、知りせないつもりなんだろう?」

 「えぇ・・・|

  「それから僕たちのことも、病院には黙っているほうが良いj

  「わかってる…」

 部屋を出る時、村上は、もう一度翠の額に唇をつけて行った。

 ひとりになると、翠は毛布をはね、自分でブラウスのボタンをはめた。それから

ていねいに毛布を掛けなおすと、じぃっと上を向いたままになった。眼尻から、涙が落ちていた。

ときどき、咽喉をしゃくりあけるように鳴らした。

 俺は、そのすべてを、あいたもうひとつのベッドの上で見まもっていた。全身は崩れ

落ちそうにだるいが、睡む気はおきなかった。親として、何もしてやれないことが口惜しくて

ならない。翠は、それから二時間余りも辛抱して、手術室に運ばれて行った。

 結果は、良好だったようだ。それでも二階の病室に移されたときには、ぐったりとしていた。

 「いいかい、もう悪い遊びをしてはいけないよ」

 と、医者は言った。

 「病気も診ておいたが、何ともなくて良かった。まだ若いんだから、悪いことをすると

またすぐに妊娠するぞ」

 翠は人形のように、無表情であった。

 医者の様子では、二、三日経過を見て、異常がなければ割合い簡単に退院できそうであった。

俺はようやく胸をなでおろした。

 次に来客があったのは、午後四時をすこしまわった頃であった。

 翠がウトウトとしていたので、俺も、疲れきった身体をベッドの下にもぐりこませて、

つかの間、居眠りをしていた。

 「ごめんね。翠、おそくなっちゃった!」

 ハッとして眼を開くと、すぐ前に、かたちの良い脚がならんでいた。ふくらはぎのほう

までハネがあがっているのは、雨の中を、よほど急いできたのであろう。

 「あ、百合ちゃん…!」

 翠の声に、俺はあわててベッドの下から這い出し、その脚の主を見た。そして、棒立ち

になってしまった。服装も化粧も、“きゃら"のときとは違うが、そこには聞違いなく、

アルバイトの夕子が立っていた。

 「大丈夫? もう苦るしくない?j

 同室の患者を気にして、夕子は小さい声で言った。

 本名は、百合子であるらしい。そう言えば、美歌の本当の名前は戸倉美子だった…。

 救急車を呼んだり、村上という教師のところに連絡をとったりしてくれたのは、彼女

だったのだろう。しかも先程の話では、翠と一緒に住んでいるという。これはまったく、

思いがけない事実だったのである。

とにかく、どうなるかわからないと思って、いろいろ買ってきたわ」

 百合子が持ってきた紙袋の中には、日用品のこまごまとしたものが入っていた。

 「ほかに、何か要るものはないかしら?」              `゛` ̄゜

 「ありがと…」

 翠は嬉しそうに言った。

 「平気よ、すぐに退院できそう」

 「そう? よかったね」

 アルバイトの夕子も安心したようであった。それから、ちょっと真顔になって

  「お金のことだけどさ…」

 と、言った。

  「彼氏が、ちゃんとしてくれるんでしょうね?」

  「わかんない…」

  「はかね。肝心なことじゃない」

  「でも私、バイトの残りが少しならあるから‥・」

  「だめよ! そんなの」

 吃驚したように言った。

  「そんなことってないわ。これは彼氏の責任じゃない?」

  「あの人から、もらいたくないの…」

  「何か、あったのね?」

  「………」

 夕子は、いたいたしそうな眼をした。

  「彼氏って、翠の中学時代の先生だって言ってたでしょう?」

 紙袋からリンゴを出して、器用にむいてやりながら、夕子は、となりに聞こえないよう

に、気をくばりながら言゜だ。

  「いつ頃から、おつきあいしてたの?」

  「‥‥‥‥‥」

  「翠、本当にその人が好きなの?」

 翠は首を振った。

  「だったら、何故・・・?」

  「好きだったの…。でも、もう信じられない!」

 その時、俺は、翠の眼が青白く燃えたような気がした。

  「駄目よ。興奮しちゃ・・・」

 あわてて、夕子が毛布を押さえだ

 「やっぱり気が立っているのね。身体に毒よ」

 「ごめんなさい」

 翠は、すぐ平静に戻ったようであった。だが俺はこの時、翠の眼の中に燃えた炎の色を

今でも忘れることが出来ない。それは、ゴーストの色であった。

 「万ーの時には、お金なら私もあるから、心配しないで・・・」

 と、夕子は言った。

 「ごめんなさい…、いつも迷惑ばっかり…」

 「いやだ、しっかりしてよ」

 むいたリンゴを翠の口に入れてやりながら、夕子は笑った。そして、ふと思い出したように言った。

 「翠のパパが亡くなった晩、ー緒にお寿司を喰べた話、したでしょう?」

 「うん…」

 「パパとは、それが最初で最後になってしまったんだけど、いま思うと、パパはあの時、

翠をたのむよって、私に御馳走して下さったような気がして…、何となく、虫が知らせた

っていうのかしら?」

 「まさか…」

 「そりゃパパだって、突然あんなことになるなんて、考えてもいなかったでしょうけど、

 でも私、そういう因縁みたいなものは、あるんじゃないかって思うの」

  もちろん、俺には毛頭そんな気持はなかった。第一、アルバイトの夕子が翠の友達だなどと、

 その時は露ほども知らなかったのである。しかし考えてみると、何となくそんなめぐりあわせに

 なってしまったのは、おかしなものだ。

  「翠は嫌っているけど、パパって、とてもいい人だったわ」

  夕子は、鼻をつまらせている。うつむいてリンゴの皮をむきながら、ポツリポツリと

 話しはじめた。

  「あのね、翠には黙っていたけど、パパのこと、ものすごく好きだった人がいるのよ」

  俺は聞き耳をたてた。翠も、眼を丸くしている。

  「“きゃら"でバイトしていたとき、私をどても可愛がってくれた人でね。あの晩も

 声をかけてくれて、三人でお寿司を喰べに行ったの・・・

  ドキンと、何かが俺の胸の中で鳴った。

  「その人は、パパを死ぬほど好きだったんですって、でも、パパとは何ひとつなかったって…」

  翠は信じられないような顔をしていたが、それは本当である。手を出さなかったというより、

  出せなかった。

  「次の日になって、パパが急に亡くなったとわかったとき、その人は、もう泣いて泣いて…、

泣きながら私にうちあけてくれたの」

 そうか、美歌は俺のために、そんなに泣いてくれたというのか

 何故か、俺は眼頭が熱くなった。入間の心の奥は、意タトにわからないものだな。

 「縁がないものは仕方がないって、その人は言ってた。好きになればなるほど、

駄目なんですって…」

 「そうかなぁ」

と、翠の年令では、まだ理解できないようであった。

 「嘘だと思ったら、私でためしてみて…!」

 と言ったのは、美歌の精ー杯の表現だったのかもしれない。もしためそうとしても、

おそらくは許さなかったろうが…。

 「翠だって、心のどこかで、やぱりパパを好きだったし、信じていたでしょう?」

 と、夕子は言った。

 「あら、どうして?」

 「だって、私が決心つかなくて迷っていた時、“きゃら"だったら、パパが行く店だから

安心だってすすめてくれたのは翠じゃない。おかけで心強かったわ」

 俺にとっては、まったく予想外のことであったが、この二人の間では、アルバイトの

夕子の存在は、偶然でも何でもなかったらしい。

 「私…、パパを好きになりたかったの」

 翠は、つぶやくように言った。

 「でもね、あの人には、何かゾッとるような冷たいところがあって、怖わかった…」

 「何故かしら? 私には、やさしい良いパパとしか思えないんだけど…」

 夕子は、溜め息をついた。そしてふと思い出したように、眼を宙にすえた。

 「そう言えば、あの人も同じようなことを言ってた…」

 「その人は、いま何処にいるの?」

 と、翠が聞いた。俺は全身を耳にして、息をころした。

 「それが、へんなことがあったの」

 リンゴの皮をかたずけながら、夕子が言った。

 「五月の半ばすぎになって、その人は、いきなり私にお店をやめてほしいって言うのよ」

 「なぜ?」

 「理由はわからないの。教えてくれなかったから…、こっちの住所も誰にも言わないほうが

良いって、その人も、それきりお店には来なくなったわ」

 「それで、“きゃら"をやめてしまったのね」

 「いいバイトだったけど、何だか気持ち悪るかったんですもの。それに・・・」

  夕子は急におびえた表情になって、翠の耳もとに口をよせだ

  
 「驚かないでね。美歌さんは、自分が久留島先生を殺したって言うのよ。でも私、信じられないわ!

美歌さんがパパを殺すなんて…、だから、誰にも話さながだけど・・・」

 翠は、暫らく考えていた。やがて、何かを決心したように言った。








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