第 三 章 十七歳のブルース (2)
「そうよ、パパが死んだのは、その人のせいなかじゃないわ! もし、本当にパパを
殺した人間がいるとすれば、それは私よ・・・!」
手術後の、血の気のうすい顔であった。翠が何を言おうとしているのか、俺にも全く見当がつかない。
夕子も、ポカンと口をあけたまま翠をみていた。
「あの日、私、生まれて初めて、彼と一緒にコマ劇場の裏のへんな所に行ったの」
「………」
「入る時は怖わかったけど、いざとなったら、案外、平気だったわ」
上を向いたまま、翠は、うすい笑いを浮かべた。
「それをね、パパが見ていたのよ!」
なに・・・? それでは俺が尾行していたのを、翠は知っていたのか。うしろから追いこして
行ったのだから、翠が俺に気づいていたというのは、十分に考えられることなのである。
「どうして、そんなことしたの・・・?」
ようやく、夕子が聞いた。
「だって、パパったら、私の後を尾けてくるんですもの!」
「?」
「村上先生とは、あの日駅の近くで偶然に出会っただけよ」
と、翠は言った。
「ひさしぶりだから、お茶でも飲もうかって誘われたんだけど、たいして乗り気にも
なれなかったの。それが、途中からパパがずっと私たちのあとを尾けてくるんですもの。
ものすごく腹が立って、私、わざとベタベタして歩いてやったわ」
べつに、悪る気があってしたことではない。俺は、自分のうかつさに気づかなかった。
「そんなに信用されてないんなら、本当にやってやるって思っちゃった。彼に、二人だけに
なれる所に行きたいって言ったら、すぐに乗ってきたわ」
「でも…、先生でしょう? 翠は教え子じゃない」
「先生だって、ふつうの人よ。私ね、彼はあの時、女の子をハントしていたんじゃないかと思うの。
カンだけど、そんな雰回気だったわ」
翠の言ったことは、俺の胸を刺した。実はあのとき、いい子でもいたら声をかけてみようかと、
俺も思っていたのだった。
「先生とは、それが初めてだったの?」
「そうよ。最初のおとこ…、うふふ」。
夕子は、眉をしかめた。
「パパに顔を見られるのが嫌で、それに、身体中がとっても気持ち悪くて、どうしても
家に帰る気持ちになれなかったの。それで…」
「それで、私の部屋に来たのね?」
そうか、それでは翠はあの晩、夕子の部屋に泊ったのだ。何故か俺は、胸につかえでいたものが、
半分だけおりたような気がした。
「次の日の新聞を見て、パパがどうしてあんなにお酒を飲んでいたのかレすぐにわかった。
原因は私よ・・・」
「それはたしかに、すごく疲れているみたいだったけれど・・・」
夕子ぱ翁"で、俺が半分眠っていたことを思い出したようであった。
「だからと言って、それだけではパパを殺したことなんかにはならないでしょう?
へんなこと、気にしては駄目!」
「………」
長い沈黙の後で、翠は眼を閉じたまま言った。
「さっき、縁がないものはどうしょうもないって、言ったでしょう?」
「えぇ…」
「私、どうしてもパパとは駄目だったみたい…。あの晩のことがなくても、いつかは、
同じようなことになっていたと思うの」
俺は悲しかった。翠は、あるいは俺の本質を見抜いていたのかもしれない。
深酒をした理由は、たしかに翠のことが原因であったに違いない。そしてレ俺はいとも
簡単に殺されてしまった。いったいこれは娘の責任なのだろうか…。
その時、俺はあることに思いあたって、慄然となった。話の次第では、翠はこのとき
村上という教師の子供を妊ってしまったことになる…。俺には、翠の気持ちがわからなかつた。
あとを尾いて行ったくらいで、何故、翠は自分を滅茶滅茶にしてしまうほど腹を立てたのだろう。
だが今となっては、俺には翠を責める気持など毛頭なかった。
父親として、娘のこんな体験を知ることは、いちばん辛い。夕子の言葉を借りれば、いったい
どういう因縁で結ばれているのか…、重苦しいしこりが、また俺の胸にこみ上げてきた。
夕子が帰ったあとも、俺は娘のベッドの下で、転々と悶えつづけた。
翠が退院するまでの二日間、俺はこうしてベッドの下に這いつくばって暮らした。もう
他に移動する気にもなれなかった。ここは薬くさくて、ゴーストにとっては最底の条件で
あったが、それでも501号室のような煩わしさがないことが何よりだった。
美歌が犯人だなどとは、俺も信じたくなかった。俺を殺したと言うのは、真実を言って
いるのか、それとも言葉のあやか…。俺には両方とも本当のことであるように思われて
ならない。夕子をやめさせたのは、アルバイトの女子大生が事件に巻きこまれるのを防いだ
のだろう。如何にも美歌らしい配慮だった。
やめたのが五月の半ばすぎと言えば、ちょうど俺がシャバに出る一週間くらい前のこと
であろう。俺は、六郷土手のアパートにたまっていた新聞の数を考えてみた。美歌はその頃、
アパートからも姿を消している筈であった。数は、ほぽ符合していた。
それは同時に、赤べこが殺された時期とも合致している。あの男も“きやら"の常連だった。
美歌の失踪は、この事件とも、やはりかかわりがあるのだろうか。
さらに一週間あまりって、俺がシャバに出た翌日、今度は美歌のアパ−トに近い六郷
の河原で、久野久雄のすさまじい惨劇がおこった。
こうして、俺の死を含めて、すべて美歌の周辺で次々におこった不可解な三つの殺人事件には、
そのどれにも“ポルノ小説殺人事件”という黒い花輪が飾られている。俺は、身ぶるいするほど
恐ろしくなった。
あれは小説である。架空の、しかも書かれなかった小説である。それなのに何故人間が
殺ろされてゆくのか…。俺は知らない。断じて俺の責任ではない!
俺は、告白する。
実を言うとあのアイデアは、もともと俺が考え出したものではないのだ。作品が書けなくて
悩んでいたとき、女房の加奈子が言ったのである。
「あんた、こんなのはどうなの?」
加奈子は風呂から上って、Lサイズの自分のパンティを洗濯機に放りこみながら、こと
もなげにしやべった。
「タイトルは、ポルノ小説殺人事件なんて、面白いんじやない?」
ぺらぺらと、ひととうりのストーリーをしやべったあと、加奈子が言ったのを聞いて、
その時は黙っていたのだったが、心の中でこれは面白いと思ったことは事実である。俺は
加奈子が寝てしまうのを待って、それをごく簡単な覚え書きにして残しておいた。ただそ
れだけのことだったのである。
作家としてのプライドにかけて、このことは言いたくなかった。だがこうなっては、
責任の所在だけは明らかにしておかなければならない。まごまごしていると、俺のほうまで
“宿無し“になってしまう。
情けない話だが、その加奈子は母親でありながら、翠の流産について、未だに何ひとつ
気づいてはいないのである。今ごろは、またどこかのチャンネルで、ポルノ評論家などと
破廉恥な笑い顔を披露しているのであろう。
教師の村上は、次の日もやってきたが、翠はとくに変った様子も見せなかった。ただ、
何かを胸に秘めているらしいのが、俺には不安だった。同室の眼があるので、教師は翠の
手を握っただけで、その日は帰っていった。
二日目の午後、夕子がきてベッドのまわりを片づけ、翠は退院した。費用は、結局夕子
が立て替えたようだ。
俺は、一緒に病院を出た。そろそろゴーストタウンに戻る時が追っていたが、翠がどんな
所でどうやって生きているのか、この眼で、ぜひ確かめておきたかった。
病院を出ると、二人は肩を組むように寄りあって、ゆっくり、バスストップのほうに歩いた。
荷物は全部夕子が持ってくれた。
タクシーをやめて、バスを乗りついで帰るつもりらしい。あるいは、病院の払いで夕子も
精一杯だったのかもしれない。俺は、せめて荷物だけでも持ってやりたいと思ったのだが・・・。
何もしてやれなかった父親である。
ふたりが帰りついたのは、私鉄の駅からまた七、八分歩いた小さな寮みたいなアパートだった。
「おちつくまで、暫らくは寝ていたほうが良いわよ」
と言って、夕子はふとんを敷いた。阿佐ケ谷の家ではベッドにしか寝ない娘だったが、
翠は素直に横になった。
学生の部屋らしぐ、すべてが簡素で清潔である。本棚がよく整理されていて、小さな
テレビも置いてあった。全体の様子では、夕子が住んでいるところに翠がころがりこんで、
そのまま世話になっているという感じだ。部屋代のいくらかは出す約束をしているのだろうが、
だいたい居候に近い。
夕子は、あわただしく化粧をはじめた。いつも四時すぎになって病院に来ていたのは、
学校とバイトの合い間を利用していたからであろう。
「“きゃら"は良かったけど…」
と、夕子は言った。
「いまのお店、あんまりガラが良くないのよ。どこかにかわりたいわ」
「水商売、好き?」
「うん、学校より性に合ってるみたい」
小さな鏡の中で、夕子が笑った。
「私も、やってみたい…」
「翠は駄目、今のバイトでたくさんじゃない」
友達ちというより、姉妹のような感じだった。年令は夕子のほうが、四ッくらいは上の
筈なのである。どういうわけか、相性が良いのかもしれない。
夕子が、テレビをつけた。また加奈子が現われるのではないかと、俺はギクッとしたが、
うつったのは、岡井みゆきだった。
薄いスカイブルーのドレスを看て、スローな歌をうたっている。ドレスは、サトミの
あの白い衣裳に似ていた。
「17才のブルース、お店でもけっこう流行っているわ」
夕子が口ずさんだ。だが翠は、あまり関心がないようであった。
「じゃね、行ってくるから、ゆっくりとやすんでいなければ駄目よ」
「ありがとう…」
つけまつ毛のせいか、眼が大きく、病院で見たときより全体がづっと派手になっている。
“きゃら"で見なれたアルバイトの夕子の顔であった。
夕子が出て行ってしまうと、翠はテレビを消した。
俺は、翠が間違った生活をしているとは思わなかった。村上という教師とのことを除けぱ、
翠は健全であり、平均的な17才の感覚のなかで生きていた。今回の災難を薬にして、
もう一歩成長してくれることを願うのみである。
翠が寝息をたてはじめたので、俺は立ち上った。早くゴーストタウンに戻らねばならない。
旧暦の、七月十五日が近づいていた。
俺は、小さな鏡にむかって、頭を下げた。出来ることなら、もう暫らくの闇、このまま
翠をおいてやってほしい。夕子は、いや、百合子はあたたかな娘である。
梅雨は、ようやくあがりかけているようであった。俺はゴーストタウンのひばの本の下を
思った。四十日あまりの苦しいシャバぐらしだったが、サトミを忘れたことは一日もなかった。
いま、一番気にかかるのはそのことである。
俺は、疲れてズタズタになった身体を自分ではげましながら歩いた。これから旧盆まで
の間に、ゴーストタウンに戻ってやり遂げなければならないことが、山のように溜っている。
ようやくのことで、四谷にたどりついたのは、ちょうどゴーストタウンがカラーから
透明な黒一色にかわる夕まづめだった。
ひばの木は、何事もなかったように立っていた。
サトミは、きっと待ちくたびれているに違いない。俺は、すぐ先にある自分の棲み家に
むかって、足早やに歩きだした。
ふと、その時ひばの木の下に、何か自い紙のようなものがあることに気づいた。
あとほんの少し暗くなっていたら見逃してしまっていたろう。
立ち止まって、俺は黒いもやのなかを透かしてみた。全身から、血の気が引いた。
「サトミ…!」
かけ寄って、俺は叫んだ。
「………」
抱きおこすと、サトミは息をしていなかった。枯れた笹の葉のように、からからに乾き
きっていた。俺は夢中でサトミを揺すった。
白い衣裳が、吹き流しのように裂けて、たれ下っていた。爪がはがれ、たなびいていた
髪は、半分以上、朽ちてポロボロだった。痩せて、汚れて、捨てられた紙屑のようになっていた。
「サトミ・・・!」
うっすらと、サトミは眼をひらいた。だが、視力はないようであつた。
そのとき、サトミの身体がかすかにふるえた。たえだえの意識の底で、俺が帰ってきた
ことを知ったのだろう。すべてを忘れて、俺はサトミの名前を呼びつづけた。
ようやく、不規則な呼吸がよみがえってきて、何とか気持がおちついてくると、最初に
うかんだのは、陰険で、惨忍な老ゴースターの顔であった。
「あの爺いだな!」
俺は、サトミを抱きしめたまま、うめき声を上げた。
「そうだろう、お前をこんなめにあわせたのは・・・!」
事実だったら、たとえゴースター同士でも許すつもりはなかった。ダガ、サトミは首を振った。
唇が、もの言いたげに動いている。俺は祈るような気持ちで、それを見守っていた。
「待っていたの・・・」
うわ言のように、かすれた声が洩れた。
「ただ、まって、待っていただけ…」
それが、残っていた力のすべてだった。サトミは、再び深い昏迷の淵に沈んだ。
感動のあまり、俺は声もなく、言葉もなかった。
サトミは、信じていたのだ! ゴーストタウンを出る前の夜に、俺が言っておいたことを
信じていたのだ。そして今日まで、ひたすら俺の帰るのを待って、ひばの木の下から
動かなかったのであろう。だがそれは、想像もつかない苦難と、恐怖の祭壇に、みづからを
いけにえにしなければ、出来ないことであった。
飢えと渇きが、絶え間なく襲ったであろう。酷暑と寒冷と、梅雨どきの猛烈な湿気が、
サトミの健康を思うさま蝕んでしまったに違いない。凄槍なゴーストタウンの夜は、うなり声
を上げて、淡い綿雪のような身体を責め虐んだ筈であった。
妖しい物怪が跳梁したことであろう。蛇が肌をなめ、蛙が這いまわリ、野犬が肉を噛ん
だかも知れない。だが、宿無しのサトミに手をさしのべてくれるゴーストは、誰一人として
いなかった。一日が、一年にも十年にも感じられたことであろう。それでも、サトミは
信じようとしたのだ。たとえボロ屑のようになって、ひぱの木にひっかかってでも、俺を待
ちつづけるつもリだったに違いない。
俺は、凄まじい気迫さえ感じた。
あのとき、俺が黙ってゴーストタウンを出て行かなかったら、あるいは、これほど悲惨
な苦しみは与えずにすんだかも知れないと、胸をえぐられるような思いだつた。
サトミは、安堵して満足しきった顔で、俺の腕のなかに横たわっていた。しかし安らかな
寝顔のように見える表情の奥で、サトミはいま、極限の苦痛と闘っているのだ。
ゴーストは死ぬことが出来ない。死の状態に至れば、その苦しみのまま、永遠の孤独の
なかで生き続けなければならないのである。もう、疲れなど問題ではなかった。一刻も早く
棲み家に戻って サトミを救わなければならない。手おくれになれば、ニ度とよみがえ
ることはないであろう。それは無限の地獄に陥ちてしまうことを意味する。宿無しより、
もうひとつ奥の、ゴーストタウンの奈落の底であった。