第 三 章 十七歳のブルース (3)
俺はサトミを背負った。
何としたことか、まるで枯れ草のような身体が、いままでの十倍も二十倍も重いのである。
その上、背中の肉が引き裂かれるように冷たかった。俺は歯を食いしばって
丘への坂道を登った。
一歩一歩、俺は必死だった。よろめき、倒れそうになりながら、やっとの思いで丘の上
までたどりついた。
ガランとした棲み家は、あの日、出て行った時のままになっていた。俺がいなくなった
ことを知って、サトミは、遂に一度もこのなかに入ろうとしなかったのだろう。寝台の上
には、うっすらと灰のようなものがつもっていた。
力つきて、俺はサトミと一緒に寝台に倒れこんだ。しばらくは、動くことさえ出来なか
った。
数百年も、氷に閉じこめられていたミイラのように、サトミは、かたく冷たくなってい
た。這うようにして、俺はその身体を抱いた。薬も水も火も、物質というものが存在しな
いゴーストタウンでは、それだけが蘇生させる唯一の手段だった。
それから一週聞、俺は一睡もしないでサトミとともにすごした。冷たさに感覚がしびれ、
手足が凍って動かなくなってしまった。それでも俺は、無我夢中でサトミに覆いかぶさっていた。
すこしでも身体を離せば、そのまま奈落の底に沈んでしまうのである。
その上、俺の胸のなかには、感覚的な苦痛とは別の、もうひとつのまがまがしいまでの
恐怖が、渦巻いていたのだ。
俺は、この冷たさを知っている。もう十五年以上前のことだが、これと同じ苦しみを、
俺はわが娘の翠に、与えたことがある…。今日まで絶対に思い出すまいとしていた過去が、
鮮やかによみがえってきた。おそろしい因縁の歯車に巻きこまれ、噛み砕かれそうになる
自分を、サトミにしがみつくことだけで、やっとの思いで耐えていた。
八日目の朝になって、ピクリとサトミのまぶたが動いた。
「サトミ! 私だ…!」
声が聞こえたのであろう。指先に、かすかな反能がかえってきた。涙を流すことが出来
たら、俺はどんなに幸福だったろうと思う。サトミのまぶたはまだ閉じたままであったが、
頬に、かげろうのような微笑がうかんでいた。
「サトミ……!」
サトミは、賭けに勝った。信ずるということに賭けて、サトミは勝った。
考えかたによっては、これはまったく無意味な賭けであったかもしれない。第一、
どっちみち俺は帰ってくるのだ。爺さんにも、あれだけ頼んでおいたのだから、サトミは、
ただ俺の棲み家で待っているだけで良かったのである。それなのに、何故ひばの本の下な
どに行ったのだろう。
たしかに俺は、淋しくなったらひばの本の下で待っていろ、と言った。しかし宿無しの
身で、こうまで自分をいためつけることはなかったと思う。おかげで俺まで大変な苦労を
してしまったわけだが、そのために、二人がかえって強いきずなで結ばれるようになった
こともたしかである。爺さんが何を言おうと、俺はもう、決してサトミの真情を疑うこと
はないであろう。
もうひとつ、サトミには驚くべき変化がおこった。
髪に艶がもどり、しゅろの葉のようだった衣裳が、またもとのように白くフワリとした
感じに変ると、サトミは眼を見張るほど美くしくなったのである。もともと抜群の美貌
だったが、その姿はまるで雪の中に咲いた大輪の白いバラのように思えた。俺は、どんな
名画にも、かってこれほどの美女を見たことはなかった。
サトミは、17才の少女のまま、完璧な女としての成熟を遂げたとしか考えられない。
これは俺にとって、最大の誇りであった。
ゴーストタウンが、いちぱん穏やかになる午後のひととき、俺は十日ぶりに、全快した
サトミと一緒に、棲み家の外に出た。
みどりの森と、赤い屋根がゆれていた。俺ははじめてこの風景を見たとき、叙情的で
ロマンチックなムードさえ感じたものだ。これなら暮らしやすいだろうと思ったのだが、
ゴーストタウンは、想像した以上に厳しいところだった。でも、いまこうやってサトミと
肩をならべていると、俺はあの頃に戻ったような気がする。透明な色彩のすべてが、美くしい
自い少女を引きたてているようにさえ思えるのだった。
「唄ってごらん…」
俺は振りかえって、サトミに言った。シャバから帰ってきてから、まだ一度もサトミの
あの歌を聞いていないのである。
やがて丘の上から、哀愁にみちたメロディが、霧が流れるようにひろがっていった。
悲しく、せつなく、歌声はそれを聞くゴーストたちの胸を掻きむしったことであろう。
俺は、そこにサトミのすぺてが、こめられているような気がした。生きることから見放
されてしまったサトミの慟哭であった。
サトミは、生きたいのだ。一歩も動かず、かたくなに俺を待ちつづけていたのも、ただ
それのみが目的だった筈だ。宿無しの少女には、ひばの本の下に自分を投げ出すことしか
方法がなかったのであろう。死に勝る恐怖の代償として、サトミはいったい何を得ようと
したのか、俺はようやく、サトミの気持を理解してやることが出来た。
サトミは、俺を信じようとしたのではなく、極限の苦痛に耐えることで、真情を俺に信
じさせようとしたのだ…。
歌声は、やがて長い尾を引いて、森のむこうに吸いこまれていった。
「サトミ、安心しなさい!」
俺は、全身の力をこめて言った。
「宿無しであろうとなかろうと、お前は私のものだ…!」
他のゴーストの生命を喰わなければ、絶対に浮かび上ることの出来ない宿無しであるな
らば、俺はあえて引き受けてやる。最後に勝つことができるのは、至上なる愛の力のみであろう。
サトミは微笑した。凄絶な微笑だった。身体中が、月光を浴びた樹氷のように輝やいていた。
思わず圧倒されて、俺は顔をそむけた。その腕の中に、ゆっくりと、サトミが
崩れおちてきた。
「大丈夫か!」
俺はあわてて、サトミを抱きとめながら言った。おそらく気がゆるんだのであろう。
うなずいたが、サトミは眼を閉じたまま、腕のなかであえいでいた。病み上がりの少女には、
負担が重すぎたに違いない。俺は、サトミに歌わせたことを悔やんだ。
「もういい、お前の気持はよくわがった。だから、これからはあんな無理なことをしては
いけないよ」
俺はできるだけ、いたわりながら言った。
「棲み家に戻って、やすんでいなさい。私は、これから麓まで行ってくる。すぐに帰るから、
それまで決して外には出ないように…」
サトミはようやく元気をとりもどしたようであった。
一人になると、俺は麓の老人の棲み家を訪ねた。旧盆までの間に、これまでのことを話して、
相談もしておきたかったのである。
それは家というよりも、馬小屋に近い。何しろすきまだらけで、べつに覗きこまなくて
も、老人が、なかでぼんやりと膝をかかえで考えこんでいる姿が見えた。
「おっさんよ!」
俺は、なつかしさをこめて呼んだ。サトミを虐待したのではないことがわかった以上、
やはり、一番だよりになる仲間だった。
「ああ、そこの穴から入っておいで…」
無気力に、老人は答えた。すきまから勝手にもぐりこんで、俺は老人の前にすわり、
シャバでの一部始終をかいつまんで話した。失敗ばかりしてきたようで、ちょっと体栽が悪
いが、とにかく全力をつくした結果なのだから仕方がない。
ところが、はじめのうちは眼を半分とじて、眠そうに聞いていた老人が、だんだんと
身を乗り出してきた。話が一段落すると、突然、吃驚するような大声をあげた。
「先生、やっぱり違うもんだ。こりや、たいしたこった!」
「何か…?」
年寄りの反応があまり大きがたので、俺はかえって意外だった。
「何がって、先生、これだけ揃えば、お前さんシャバが近いよ」
「本当かい?」
思わず頬がゆるんだ。だが正直なところ、俺には、まだ犯人の見当もついていないの
である。俺は、勢いこんで言った。
「で、犯人は遂だと思う?」
「わからん・・・」
この爺い とぼけやがって・・・。俺は、ガッカリしてまった。
老人は、暫らく考えていた。そして、大きな溜め息をついた。
「おそろしいことだな」
「・・・・・・・・・・」
「先生、気がつかないのかね?」
老人は俺をにらんだ。俺は、にらみかえしてやった。おそろしくない殺人事件などるものか。
「死人が、多すぎる…」
老人は、ポツリと言った。なるほど、言われてみれば赤べこと、久野久雄、俺を加える
と三人である。
「甘い…! そんなのは問題じゃない」
吐きすてるように、老人は言った。俺はムカッときた。殺された本人の俺は、問題じゃ
ないのか…。
「いいかね、先生、良く考えてみな。まず、わしだろう?」
「いやしかし、おっさんは…」
「黙って聞きな!」
頭ごなしに押さえて、老人は指を折った。
「まず、わしだろう。それから、玉石寿々子の部屋で死んだ、正子という名の娘と子供
の利恵…」
俺が不服そうな顔をしたので、老人は、ひと息ついて説明を加えた。
「ちょっと見ると関係ないようだが、ゴーストになってから、まわりに現われる死人は、
みんな何かの因縁で結ばれているものだよ」
それならサトミもだ、と俺は言いたかったが、黙っていた。
「では、阿佐ケ谷の訳にいた、若いゴースターはどうだね?」
俺としては、精一杯の皮肉のつもりだった。まさか、あれは無関係だろう。
「もちろん、落とすわけにはゆかん」
老人は、案外、真面目な顔で答えた。俺は、だんだん背筋が寒くなってきた。七年も前の、
名も知らぬ青年の飛ぴこみ自殺まで、何かの因縁があるというのか…。
「全部で、何人だね?」
老人は、故意にサトミを加えないで言った。
「七人だろうよ」
「いや、七人半だ」
しばらく、俺はその意味がわからなかった。
「先生、まだわからないのかね? あんたにとっては大切な娘さんの…」
老人に言われて、俺は、全身が硬直するほどの、おそろしい衝撃を受けた。そうだった、
翠の腹のなかで、四ケ月にも満たずに流産してしまった子供…!
「先生、因縁というのは、おそろしいものだよ」
と、老人は低い声で言った。
「赤ン坊の罪でもなければ、娘さんが悪いわけでもない。みんな因縁なんだ。だから
お前さんのまわりに現れるんだよ」
それは、大いに迷惑である。俺がさがしているのは犯人であって、今更、こんな老人の
因縁ぱなしを聞かされても、何の役にも立つわけがない。
「生きている人間の話をしてくれ!」
俺は、いらいらと言った。
「だがよ…」
老人は、あくまでこだわっていた。
「連中が、どうやって死んだか、よく考えてみるが良い。必らず何かがある…」
「どう死んだかと言われても…」
俺は、半分投げやりな気持で答えた。
「おっさんは、ひき逃げされたと言ったろう?」
「うむ」
「娘たちは、ガス中毒の事故死だ。私は車の中で、赤べこはモーテル。久野久雄は西洋
カミソリで、阿佐ケ谷の若いのは電車に飛びこみ…」
そこまで言って、はっと気づいた。バラバラのようだが、たしかに、一本の線が走って
いるようにも思える。俺の顔色が変ったのを見て、老人は、それみたことかと鼻の頭を上
に向けた。
「そう言えば、ガス中毒と流産を別にすれば。それぞれ乗りものに関係があるような気
がする…」
「それよ…!」
と、老人は膝を打った。
「わしも、だいたいそうだろうと思っていた」
だが何となく、俺はまだスッキリとしないのである。
俺を殺した奴が、車を使っていたことは、はじめから鍵のひとつに数え上げていた。
それが赤べこや久野久雄にも共通するということは、可能性として、十分に認めても良いと
思う。これに老人のひき逃げを加えてやれば、爺さんとしてはかっこうがつくだろうが、
阿佐ケ谷のゴースターまで同じグループと考えるのは、やはり不自然ではないだろうか。
「乗りものを、自動車にしぼろう」
と、俺は言った。
「いくら何でも、電車はまずいよ」
「わしは反対だな」
老人は、頑固に首を振った。
「さっきも言ったろう? それがつまり…」
「因縁かい?」
ウンザリして、俺はとにかくここは老人の言うとうり、認めておくしかないと思った。
「それで、車を持っているのは誰だね?」
俺がうなづいたので、老人は、ようやく生きている人間のほうに話をすすめた。
「私の女房の加奈子と、プロデューサーの瀬川和彦だ」
「ほかに…?」
「久野久雄も有資格者だったが、こいつは死んでしまった」
「死人の話はいらんよ」
と、爺さんは勝手なものだ。
「あとは"きやら"の美歌だが、たしか、免許証は持っていた筈だが、車がない。
つまリペーパードライバーだ。玉石寿々子も、免許証だけは持っていたようだな」
俺は、日東テレビからさしまわしの、黒塗りのプレジデントに乗って、悠々と出かけて
いった、寿々子の得意気な横顔を思い出して、胸糞が悪くなった。
「ほとんどみんな、と言っても良いくらいだが…」
注意ぶかく指を折って数えていた老人は、やれやれと情けない声を出した。
「もう一人、先生の娘さんはどうだね?」
「馬鹿言っちや困る。あの子が人殺しなんかするものか! それに、翠はまだ17才だから、
免許も取れない」
「家に先生の車でもあれば、見よう見まねで運転くらいは出来たかも知れんだろうが?」
「無免許でかい?」
「人をひき殺ろすような奴は、どっちみち運転技術が未熟なんじや!」
と、爺さんは、結局自分のことを言っているのだった。ゴーストの常とは言え、翠まで
疑っているのかと思うと、その執念のおそろしさに俺は身が震えた。
「わしのことは、まぁ、ともかくとして…」
流石に少しは反省したのであろう。老人は、しきりに顎をなでていたが、やがて話題を
変えた。思いがけなく、柔和な笑顔になっている。
「先生、うまくすると、こいつぱ"祭り"のときには解決できるかも知れないよ」
「うん、そうだと良いが…」
「ゴーストタウンには、十年たっても、手がかりさえつかめない連中が、うようよして
いるんだ。それにくらべたら、先生はたいしたもんだ」
半分はお世辞だろうが、俺も、その頃までには何とかして目鼻をつけたいと思っていた。
次には、サトミの問題を解決しなければならないという、大仕事がひかえている。
“祭り"とは、旧暦の七月十五日、シャバで言う“うら盆会"のことであった。
この日は、ゴーストたちがシャバヘの活路を求めて、一斉にわきたつのである。ふたり
とも初盆であったが、老人も、ひそかにこの日を待っているようであった。