第 四 章 ゴーストのカーニバル(1)

 





 ゴーストタウンの遠い西の空に、ポツンとオレンジ色の火が燃えていた。透明な闇のな

かで、やがて、火はふたつになり、三つになった。うなり声が、大きく渦を巻いて、ふっと

かき消すようにやんでしまった。地上から、低い地鳴りに似たどよめきが、湧き上って

きた。それは、互いにこだましあって拡がってゆく。溜め息や、うめき声や、すすり泣き

の交錯したリズムに、時折り鋭い悲鳴が混ざっていた。どよめきは次第に昂まり、黒い花

火のように、天空に飛び散っていった。そして、遂に頂点に達した。

 突然、満天が火の海になった。

 赤、青、だいたい色…、それは遠く近く、暗黒の巨大なスクリーンの上に浮んでいる。

ちろちろとまたたいているもの、あかあかと燃えさかっているもの、全体がまるで蜃気楼

のように、揺れながら明滅していた。シャバの迎え火が、ゴーストタウンの夜空に、闇を

透かして投影されているのだった。壮大な、“祭り”の序曲である。

そのとき眼の前を、ゴーストの黒い影が、すばやくよぎった。

むくむくと動きはじめているのは、すべて、永劫の過去から、滓りのように沈澱していた

ゴーストたちの無惨な影であった。草葉の下に、じっと身をひそめていた彼らは、眠りか

ら醒め、凄まじい妄執のとりことなって右往左往している。彼らの動きに、俺はただなら

ぬものを感じた。

 これは、ただの“祭り”ではない…。

 すぐに棲み家にとってかえすと、サトミを寝台の上にあげ、厳重に言った。

 「いいか、“祭り”が終るまで、決して動くんじやない!」

 さもないと宿無しのサトミは、あいつらのために、寄ってたかって餌食にされてしまう。

ひばの本の下で、あれはどの恐怖と苦痛に耐えてきたサトミだったが、やつらとは、犬と

狼ほどの違いがあった。もし発見されれば、事態は明白である。それは餓狼の群れにー匹

の小兎を投げ出すのと同じだ。

 サトミは蒼白な顔で、俺を見上げた。肩がふるえている。老人の棲み家のように、隙間

だらけでないことが幸いであった。

「顔を伏せろ!」

 鋭く叫んで、俺は戸口に走った。

 そこには、早くも棲み家のなかを窺おうとして、邪悪な気配が追っていた。扉をあける

と、俺は力一杯、そいつに体当りを喰わせてやった。あわてて丘の裏側に逃げようとする

のを追いつめ、思いきり背中を突きとばすと、黒い影は、異様な悲鳴を上げて、急な崖の

下に転落していった。

 俺は、崖の下を覗いてみた。そこはじめじめとして冷たく、いつも妖気がたちこめている

ような処だった。肉体が滅ぴたあとの、何とも言いようのない臭気が吹き上げていて、

むっと鼻をついた。もしかしたら、ここはゴーストタウンの奈落の底につながっているの

かも知れない。黒いゴーストの影は、まるで吸いこまれてしまったかのように、見えなか

った。俺は身震いして、この場所をはなれた。

 天を仰ぐと、火はますますその数を増している。だが、あたりがすこしも明るくならな

いことが不思議だった。しかも、火は陰々として燃えさかりながら、一定の速度で近づい

てくる。それは、ゴーストタウンのほうが、反対にシャバに引き寄せられているためなの

であった。これから明け方までかかって、ゴーストタウンが浮上するのだ。

 物質と非物質との差別をこえて、何か強大な力が作用している。実際にはわづか数セン

チのことであったが、まるで、深海の底から引き場げられているような感じだ。

 朝になれば、宿無しを除いて、ゴーストはそれぞれシャバに散ってゆく。そして、供え

られた供物を、むしやぶリ喰らうのである。それまでは、十分に気をつけなければいけな

い、と俺は自分の棲み家に戻ろうとした。

 そのとき、俺はぎょっとして、立ちすくんでしまった。          ・

 入り口の扉が、開いている…! 今のことがあって、そのままになっていたのだ。俺は

夢中でなかに走りこんだ。

 自い羽毛のようなものが舞っていた。サトミが無言で身を捻り、こちらに背を向けて、

ドス黒いゴーストの影が、それを押さえつけようとしていた。

 俺は大声を上げて馳け寄り、そいつの腰のあたりを蹴った。だがゴーストは、委細かまわず

サトミの上に乗りかかろうとする。恐怖におののくサトミの顔が見えた。俺は、後から

そいつに組みつき、首を絞め、力まかせに引き錐そうとした。

  ゴーストが振り返った。噴怒と欲望に歪んだ醜悪な顔であった。まだ若い、ふだんなら

青白く神経質そうな顎の細い顔が、悪鬼のように変貌していた。

 「きさま…!」

 思わず、二、三歩あとに退った。それは阿佐ケ谷の駅にいた、あのお人好しの若いゴースター

 であった。若者は、果たせなかった欲望にドス黒く脹らんだ顔で、俺をにらんだ。

 そして身を翻えすと、風のように戸口から出て行ってしまった。

  俺は追わなかった。追いかける気力もなかった。サトミを、一人にしておくことが、

 恐ろしかった。扉をしっかりと締めると、俺は、大きく息をしながら、サトミに聞いた。

  「あいつは誰だ。お前を、知っているのか…?」

  無惨にあえぎながら、サトミはうつろな眼を俺に向けた。まったく、心あたりはないようで

 あった。あのおとなしい若者が、どうしてサトミを襲ったのか、理解できなかった。

 ゴーストタウンでは一度も出会ったことがないのに、偶然と言うには、あまりにも偶然

 すぎる。やはり、老人が言っていたとうり、何かはかり知れない因縁の糸が、絡みついてい

 るのだろうか…。

  外には、ゴーストたちの阿鼻叫喚がますます激しく、“祭り”は最高潮に達していた。

  棲み家の周囲にも、絶えず妖やかしの気配がたもこめ、隙があれば入り込もうと窺って

いる様子だった。俺は朝まで、サトミを抱いたまま動かなかった。

 やがて、ざわめきが少しづつ鎮まり、黒い気配も、ひとつ、ふだつと去って行った。

彼らは、生きている妻や子供や、遠い子孫のどころに戻ったのである。昨夜からの騒ぎは、

まるで嘘のように消えてしまった。

 老人の予言をまつまでもなく、俺は、これから送り火までの短い闇に、何としても、

解決の糸口を掴むつもりだった。サトミのことが如何に気がかりであったとしても、これ以上

棲み家にとじこもっているわけにはゆかないのである。寝台からおりて、俺は扉を開けた。

そこには、眼のとどく濯り、まばゆいばかりのシャバが広がっていた。ゴーストタウンが

遂に完全にシャバと複合したのだ。

 思いがけないことには、この丘は、ちょうどマンションの高さと同じになっていた。

遠い森のあたりには、銀座を中心としたビルの波があった。麓のひばの水のところに 

駐車禁止の交通標識がたっているのも、奇妙な一致だった。

 俺はサトミにも、ひと眼だけでもシャバを見せてやりたいと思った。だが振り返えると、

サトミは寝台に伏せ、顔を覆っていた。シャバの明るさは、宿無しのサトミには、真昼の

太陽を直視するような、強烈な刺激なのであろう。ただ眼のくらむ光の海としか、感じら

れないようであった。

「もう少しの辛抱だよ!」

 俺は、サトミをはげましながら言った。

「“祭り”が終ったら、必らずお前をシャバに連れ戻してやる!」

 サトミは、盲目の少女のように、手をさしのべて俺を求めた。その手を、俺はしっかりと

握りしめてやった。帰ってくるまで、どうか何事もなく無事でいてくれるように祈りながら、

俺はいよいよ棲み家の外に出た。

 丘の坂道を馳けおり、途中、老人の小屋を覗いてみたが。もう姿は見えなかった。早くも

シャパに出て行ったのであろう。

 ひばの木の下をくぐると、あたりが急に鮮やかになった。確かなシャバの感触が、足元

から伝わってきた。

 “うら盆会”は、旧暦七月十三日、夜の迎え火から、十五日の精霊流しまで足かけ三日

にわたって行われるゴーストの一大ページェントである。最近では、古いしきたりもすたれて、

一種の民族行事のようになっているが、もとをただせば、そんななまやさしいもの

ではない。その奥には、生命の生と死との問題が、深くかかわりあっているのだ。それが、

ソャバではたまたま施餓鬼供養というかたちをとったにすぎない。

 俺は、決意を秘めてシャバに出た。だが町にはそれほど変った様子も見られなかった。

ただ、坊主がやたらに馳けまわっていた。こんな連中に、本当のゴーストの気持がわかって

たまるものか。

 俺はまずはじめに、死んでからまだ一度も入っていない、玉石寿々子の部屋に行ってみ

る決心をしていた。老人の言うとうり、九月のガス事故が、この事件の出発点であったと

すれば、ここには何か重大な秘密が匿されているような気がする。

 マンションの前に、大きなトラックが停ていた。俺はその横をすり抜けて、なかに入った。

 相変らず編みものをしている女の管理人の背中に、中年すぎの痩せたゴースターが、

だらしなく寄りかかって、競輪の新聞を読んでいる。死んだ亭主なのであろう。彼女は

肩が擬るらしく、編み物の手を休めて、とんとんと自分の肩を叩いていた。

 エレベー夕ーのボタンを押すすべがないので、俺は歩いて階段を登った。三階まで

来たとき、俺はやはり、全身にズンと響くような手応えを感じた。

 301号室のドアが聞いている…。まだ九時前だというのに、珍らしいことであった。

なかから、話し声が聞こえた。覗きこんでみると、運送屋らしい屈強な男が三人で、荷物

を運び出そうとしているところだった。ほかに、俳優の卵といった感じの若い男と女…。

寿々子は、普段着の軽装で彼らを指図していた。それでも、首に巻いた紫色の小さなスカーフが

良く似合って、どことなくスターらしい雰囲気が身についているから妙なものである。

 もう、こんな粗末な2DKなんかに、住んでいるわけにはゆかない、ということにでも

なったのだろう。下のトラックは、そのためであることがわかった。

 「先生、これ、大切なものじやないんですか?」

 と、手伝いに来ている俳優の卵が聞いた。見ると、あの晩寿々子が瀬川と一緒に、俺の仕事場から

持ち出した原稿用紙の束であった。

 「何だか、面白そうなことが書いてありますけど…」

 「ゴミ…!」

 寿々子は、眼の横でチラリと見ただけで言った。

 ちょっと読みたそうな顔をしたが、卵は何の抵抗もなく、そのままバサリと紙屑の山に

放り投げてしまった。俺は、もう腹も立たなかった。どうせ、ゴミだよ…!

 荷物は手ぎわよく運び出されて、2DKは、みるみるうちにガラン洞になった。玉石寿々子が、

このマンションから消えるのも間もなくである。だが俺は、この女のあとは追うまいと

思った。新居までついて行ってみたところで、得られるものは何もあるまい。それよりも、

俺はここに残って、九月のガス事故のことを、じっくりと考えなおしてみたいのである。

ガラン洞になったのは、かえって好都合だ。だ。

 トラックは、ひる少し前にマンションを出た。あとは管理人に掃除させるつもりなのか

寿々子は何の未練もな様子で、若い連中をつれて行ってしまった。あとにホコリと

小さな紙屑の山だけが残った。

 瀬川和彦には、結局、挨拶もして行かなかったようだ。よほど頭にくることでもあっ

のだろう。マンションを出る気になったのは、あるいはそのことも原因のひとつで

あったのかも知れない。

 俺は、紙屑の山に腰をおろして、部屋を見まわしてみた。間取りや構造は、501号室と

まったく同じである。ガス栓はキッチンにふたつと、各部屋にひとつずつあった。事故

に関係したのは。いちばん奥の部屋にあったガス栓である。これが、半分だけ開いていた

のだ。ストーブ用なので、眼立だない場所にあったが、位置が低く、子供でも簡単に触れる

ことが出来た。キッチンには換気扇もついていたが、ここは正面がベランダつきの窓に

なっているので、ガス栓の上の天井に近いところに、金網つきの小さな換気孔がひとつある

だけであった。

 事故があったのは九月のはじめだから、ざっと一年前のことだ。

 その日・・・、寿々子から電話がかってきたのは、夕方の六時ころで、そろそろあたりが

暗くなりかける時分だった。

 「困っちやった。姪がくにから出てきたんです。友達と一緒に…」

 電話口で、寿々子はあまり歯切れの良くない調子で言った。

 「いま日東テレビにいるらしいんだけど、明日、歌のオーディションを受けるんですって…、

それで、今夜泊らせてくれって言うのよ」

 「面倒みてやれば良いじやないか。どうせ、長いことではないんだろう?」

 「だって、部屋がせまいから・・・、おふとんだってないし、ペッドには一人しか寝られ

ないんですもの」

 なるほど、寿々子のベッドはシングルである。

 「ねぇ、お願い。今夜、先生のベッドで、寝かして下さる?」

 「おい、その子をかい?」

 「いやだ! 私が先生と…」

 寿々子は、わざらしい笑い声をたてた。

 「先生、ねぇ、今夜もおいそがしい?」

 「それほどでもないがね。まぁいいさ、来たければ来るがいい…」

 寿々子が鼻を鳴らして、電話が切れた。悪い気持はしないが、俺にとっては、びっくり

するほどの電話でもなかった。そのころの寿々子は、何かと口実をつくって、子供を寝かし

つけては俺の部屋に出入りしていた。時にはそのまま眠りこんでしまって、明けがたに

なってから、あわてて戻って行くこともあったのである。若いくせに、生活臭のふんぷん

とした下積み女優だった。

 ちょうど原稿も一段落というところだったし、俺はそれをしおに、愛用のモンプランを

置いた。

 三十分くらいたって、俺は煙草を買いにおもてに出た。ついでにケーキと週刊紙を買って

マンションに戻り、エレベーターを三階でおりた。ブザーを押すと、なかから甲高い

返事があって、すぐ、ドアが開いた。

あら、先生。ごめんなさい、変な電話しちやって・・・、怒ってる?」

 「怒ってなんかいないさ。これ、子供たちにやってくれ・・・」

 ケーキを渡してやると、寿々子は嬉しそうに、いまコーヒーをいれるから飲んでいって

くれと言った。

 俺は、狭いキッチンに置いてある食事用の椅子に腰をおろした。テープルには、子供が

喰べ残したバンのかけらがひからぴていた。窓の外に、となりの二階建ての屋根が迫って

いる。とても眺めと言えるような景色ではなかった。三階と五階との高低差は歴然である。

 寿々子がコーヒーを沸かしている間に、俺は奥の部屋を覗いてみた。

 そこは居間と寝室の兼用になっていて、子供が人形と遊んでいた。俺が入っていっても、

ふり向こうともしない。無口で陰気な女の子だった。利恵という名前で、そのとき六才の

筈であった。部屋はわりと整頓されていたが、玩具がころかつていたリ、子供の服が脱ぎ

捨ててあったりして、女優という華やかなイメージとは、ほど遠い感じだ。瀬川の言い分

ではないが、利恵の存在が、決定的なハンデとなっていたことは確かである。俺は、そう

そうにキッチンに戻った。

 「あの子、いったい何時までいるつもりかしら」

 コーヒーを往きながら、寿々子はあまり歓迎したくない口ぶりだった。

 「こんな狭いところに、いやだわ」

 「仕方ないだろう? 若い娘なんだから、いろんな夢があるさ。オーディションなんて、

そう簡単に受かるわけもないし、そのうちに、何とかなるさ」

 俺は、無責任に答えた。コーヒーを一杯飲んで、さっさと自分の仕事場に引き上げてし

まった。

 これが、事故の前に寿々子の部屋を見た最後である。

 それまでにも、何回か呼ばれて入ったことはあったが、正直に言って、俺はあの子供が

苦が手だった。寿々子はさほど気にしていなかったようだが、情事というものは、女が

ひとりになって、はじめて成り立つのではないだろうか…。俺も男だから、抱いている女が、

まがりなりにも女優と名がついているのだったら、それなりに性的なムードにもつながる。

だがこうあけっぴろげに、楽屋裏を見せられてしまったのではぶちこわしだった。

 男と女の違いなのか、それとも、寿々子にしてみれば、わかっていてもどうしようも

ないことだったかも知れない。

 部屋に戻ってから、俺はベッドに寝ころんで、週刊誌を読んでいた。寿々子が泊ると

いうのでは、阿佐ケ谷に帰る気はなかった。ブザーが鳴ったのは、夜の九時をすこしまわった

頃である。ドアを開けると、寿々子が、濃いブルーのワンピースに真珠のネックレスで、

盛装して立っていた。俺がちよっと意外そうな顔をしたのを見て、クスッと笑った。身体

を横にしてなかに入ると、音を立てないように、そっと鍵をまわした。

 「あれからすぐ、正子が来たの。ごはんを喰べさせて、徹夜のリハーサルがあるからと

言って、出て来ちやった」

「大丈夫かね.二人とも、置きっばなしで…」

「へいき、利惠も馴れているから・・・、でも、十二時になったら一度電話を入れるって言ってきたから、

忘れないでね」

 寿々子はベッドの上にハンドバックを置いて服のポタンをはずしながら言った。

「これ、おととい出来てきたの。まだ身体になじまなくって…」

 それを初めて着てきたのかと、俺も浮き浮きした気分になった。まったく、他愛のない

ものだ。そして、すくなくともこの時点では、ガスの臭いがなかったことは事実なのである。

「風呂は、どうした?」

「入ってきたわ」

「じや、もう一度はいろう」

「先生と‥・?」

 寿々子はしなをつくった。それは、俺を昼間のシラケたムードから引き戻すのに、十分

な効果的演出であった。

 マンションの浴槽はせまい.ふたりが一緒に入ると、いっぱいであった。俺は、寿々子

の細くて色の白い身体を抱いて、湯ぶねにしずめた。こうなると、子供のいる女とは思え

なかった。俺も若くはない。こんなことが出来るのも寿々子が最後の女じやないかな、

ふと、そんな感傷が頭をかすめた。

 湯あがりにビールを二本あけて、ベッドに入ったのが十一時近くだった。寿々子は、

下着も全部真新らしいのをつけていた。

 ポルノ小説風に言えば、寿々子の粘膜は、男をくわえてゆっくりとしごくような緊りと、

吸引力を持っていた.それほどの狂態を示すわけではないが、達するまで、ー手ー手を確実に

詰めてゆくタイプである。これは俺の好みでもあった。

 たっぷリと時闇をかけ、寿々子が全身の脂を搾リ出して動かなくなるまで、俺は堪能した。

満たされたあとの女の肌は、いっそう柔らかくなっている。

「おい、十二時すぎだよ」

 俺は急に思い出して、寿々子をゆすった。

「電話してやらないと、まずいんじやないか?」

「うゝん、いいわよ…」

「そうはいかんよ.おい!」

このままでは眠ってしまう。俺は強引に寿々子を起こした。

電話は、俺の執筆用の机の上にあった。寿々子は半分ずり落ちるようにして

ベッドから降り、白い背中をこちらに向けて、のろのろとボタンを押した。

 「出ないわ・・・」
 

ツーンー、ツーン・・・、と呼んでいる音が、俺の耳にも聞こえた。

 「変ね」

 「もう眠っちやったんじやないか?」

 「ううん、そんな筈ない…」

 ツーン、ツーン、と音は鳴り暁けている。

 「行って見てこようかしら…?」

 寿々子の眼から、先刻までのしめリ気があとかたもなく消えていた。

 あわただしく寿々子が出て行ったあと、俺はベッドから起きた。電話のベルが、けたたましく

鳴りはじめたのは、それから二、三分たってからであった。

 「先生ッ」

 いきなり、寿々子の悲鳴に近い声が飛びこんできた。

 「大変、お願いちょっと来て…!」

 「どうしたんだ。えッ、おちつきなさい。何かあったのか…?」

 「が、ガスよ! ガス…!」

 あの日の事故は、こうして起った。

 窓を開け、とにかく空気を入れかえて、安全に呼吸できるようになるまで、ニ、三分は

かかったのであろう。マンションのことで、隣りはまったく頼りにならない。寿々子が

俺に救いを求めようとしたのは、当然であった。

 「死んでいるのか?」

 と、俺は最初に聞いた。

 「わかんない! でもだめみたい

 「ひっぱたいてみろ!」

 「こわいツ」

 寿々子は、息を吸いこみながら言った。

 「お願いよウ、早く来て…」

 「ばか!」

 われながら、冷たい声だったと思う。

 「そんなところに、私が行ってどうなる。新聞に出るぞ」

 電話の向う側から答えはなかった。すくなくとも、俺は有名人である。事故にかかわり

あって、名もない女優との情事がおもてに出れば、週刊誌やテレビがすっとんでくることは、

火を見るよりも明らかであった。

 「いいか、おちつくんだ」

 と、俺は言った。

 「それはあくまでも事故だ。誰の責任でもない。お前は外出から帰って、偶然発見した

ことにして、すぐ警察に連絡しなさい。びくびくするな! 調らべられたとしても、罪に

はならないんだ。わかったな! それから、私たちの事は、絶対に言わないように…」

 寿々子が盛装していたことは、この場合、有利な条件であった。

「もうひとつ、いいか、現場を出来るだけ動かさないようにしておけ!」

 俺は最後にそうつけ加えたのだが、これは、果して可能なことだったろうか。

 第一、ガスはもう逃げてしまっている。部屋のなかに、どれ位の濃度でガスが溜って

いたのか、寿々子にも、再現することは出来ないであろう。ガス栓が半分ひらいていたと

言うが、半分とはどの程度なのか。開いていたのは、本当に奥の居間のガス栓だけだったの

だろうか? ふたりともその部屋で死んでいたから、単純にそう思えるのだったが、立証

する方法はまったくないのだ。

 俺は、紙屑の山に腰をおろして、長いこと考えこんでしまった。気持のどこかに、

言いようもなくおぞましい何かがわだかまっていた。

 オーディションを一緒に受けに来た友達というのが、河井みゆきであることは、間違い

なかった。運よくみゆきだけが合格したのだとすると、正子はまるで死にに来たような

ものであった。

 母親としての気持を思えば無理もないが、じつは、寿々子のやりかたも冷酷であった。

下積み女優のどこにあれだけの演技力があったのか、不思議なくらいだが、寿々子はこの

事件の一切の責任を、正子の過失として押しつけてしまったばかりでなく、娘の親に捻り

こんで、いくばくかの慰謝料までせしめたようだ。過失であったことは、疑う余地がなかった

としても、この事故を、すべて正子の責任にしてしまったのでは、可哀想な気がする。

 正子の遺体は、その場からすぐ警察病院に運ばれ、解剖の上、骨になって親元に引きと

られて行った。

 俺は、はじめから事件とは一切無関係の立場をくずさなかった。寿々子が何とか取り

繕ろって、俺たちのことは、表沙汰にならないで済んだわけだが、ひとつだけ、あの時の

電話での俺の指示が、寿々子にとってはかなりのショックだったらしく、俺との交渉は、

その後ぷっつりとなくなってしまった。

 寿々子がメキメキと売り出してきたのは、それからである。

ふと、連想が翠のところにとんだ。

 翠が流産したとき、村上という猫背の教師がやったことには、俺もずいぶん腹を立てた

ものだ。でも考えてみれば、俺だってどっちこっちだった。人間という奴は、何とも身勝手な

動物である。うなだれて、ぼんやりと足もとを見つめてていると、そこに原稿用紙の

束があった。寿々子が言ったとうり、これはゴミである。

 ポルノ小説殺人事件の覚え書きは、こんなところにある筈はなかった。俺はあの晩の、

玉石寿々子のオーバーな演技を思い出した。それにしては、あまりにもみじめな古原稿の

末路である。







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