第 四 章 ゴーストのカーニバル(2)
寿々子は、どうしてあの時こんなものを持ち出そうとしたのだろうか…、あるいは、他に本当
の目的があったのではないか。もしそうだとすれば、結論はひとつしかなかった。つまり、
あの女優もまた,ポルノ小説殺人事件の覚え書きだけが狙いだったのである。寿々子は
俺が覚え書きを持っていることを知っていたのだ。それであの晩、何とかロ実を作って、
瀬川と一緒に仕事場に入りこんだのであろう。見あたらないことがわかって、原稿を瀬川に
押しつけてしまった。いま俺の足もとにあるのは、頭にきたプロデューサーからつき返さ
れてきた、古原稿の山なのである。
だがこれは、池にひろがっただ波紋のひとつににすぎない。石を投けた奴は、ほかにいる。
俺は、眼の前が大きくひらけてきたような気がした。
このことは、俺は赤べこにしか、話していないのである。しかも、殺される日の午後に
なってからのことだ。俺以外の人間で、覚え書きの内容を寿々子の耳に吹きこむことが
出来るのは、あとは女房の加奈子のほかにいないのである。
それには、十分すぎる理由があった。
「あんた、こんなのはどうなの?」
あのとき風呂から上って、加奈子は、Lサイズのパンティを洗濯機にほうり込みながら、
こともなげにこう言ったのである。
「四谷のマンションにさ、何とかって女優がいるでしょう。あれ、子持ちだっていうじゃない?」
「玉石寿々子か…?」
ばれているのか、と内心ドキンとしたが、俺はさりげなく答えた。
「うむ、この間挨拶に来たよ。たしか六つになる女の子がいたかな」
「そんなんじゃ人気なんか出っこないわね。だから、その女優が自分の子供を殺し
ちゃったことにしてさ」
「なに…?」
「子供なんかいたんじゃ、うだつ上らないもんね。それで殺しちゃって、次から次えと
男をかえて、たちまち人気スターになるっていう筋書きなんか、どう?」
「ふん、そんなにうまく行くか…」
「男なんて、案外バカよ。たとえばテレビのプロデューサーとか雑誌の編集長とか、
あんたみたいな小説家とか…」
言いながら、加奈子はニヤニヤッと笑った。銀座のショーウインドで見せた、あの笑い
である。俺は呆気にとられて、女房の顔を見ていた。
「男が変るたびに、ベッドシーンなんかふんだんに入れてさ。あんた、お手のものじゃない。
タイトルは、“ポルノ小説殺人事件"なんていうのはどうかしら、ウケるんじゃない?」
俺はこれまで、加奈子を馬鹿だと思ったことは一度もないが・・・、まぁ、そんなことは
どうだって良い。問題は、事故だったとは言え、利恵が死に、覚え書きのとうりに寿々子が
スターになってしまったことであった。これを実名で小説に書けば、三浦事件そこのけの
反響を呼ぶかも知れない。赤べこも、そこにとびついたのである。
書けるのは、もちろん俺しかいない筈だが、書かれるほうの寿々子の身になってみれば、
たまったものではあるまい。これは、もともと加奈子のアイデアなのだから、さらに話の
尾鰭をつけて、直接加奈子から聞かされていたとしたら、寿々子が俺の死んだあと、他人
の眼に触れないうちに、覚え書きを消してしまおうと考えることは、むしろ当然であった。
しかし、俺が覚え書きを持っていることや、その内容まで、加奈子はなぜ喋ったのだろう。
作家の女房にあるまじき行為である。あの事故が事件の出発点であったとすれば、覚え書きは
その種子であり、種子を播いたのは、間違いなく加奈子だった。俺は、女房が恐ろしく
なってきた。
阿佐ケ谷の家で階段から落ちたり、テレビでおどかされたり、俺はどうもあの女が
苦が手で、これまで何となく避けてきたのだったが、いよいよ会う時が来たことを感じた。
思いきって、対決しなければなるまい。俺は勇気をふるい起して立ち上った。が、一歩も
あるく必要はなかった。加奈子は、むこうからやって来たのだ。
「あらいやだ。こんなに汚したまま出て行ったの? 何よ、この紙クズ…!」
ドアが開いて、その声を聞いた瞬間、俺はゴーストであることも忘れて、反射的にさっと
紙屑のかげにかくれた。その鼻の先、ほんの二、三センチのところで、加奈子の太い足
が、ポンと原稿用紙の山を蹴った。
「困るわ! ちゃんとして明け渡して貰わなくちゃ、すぐ人に借すんですからね」
「はあ、今日中にお掃除をしておきますから…」
一緒についてきた女の管理人が恐縮していた。
「たのむわよ。でも、すいぶん乱暴に使っていたのね。千八百万じゃ高すぎたかしら…」
「そうでもありませんよ。いまこのマンションは、どこでも二千万以上が相場で…」
「死人をふたりも出した部屋なんか、相場で買う人があるもんですか。千五百万でも
良いくらいよ」
ついてきた女管理人は、自分の責任のような顔をして黙ってしまった。
加奈子は、それから部屋の点検をはじめた。こまかいところまで眼をつけて、いちいち
管理人に書きとめさせていった。唖然として、俺は紙屑のかげから、女戻のやることを
見ていた。
売ったほうも売ったほうだが、買った奴の気がしれなかった。しかも、千八百万という
資金は、明らかに俺の保険金である。 501号の仕事場を、瀬川に貸しだのはともかくと
しても、加奈子は、たった一年かけただけの保険で、この部屋まで買ってしまった。俺は
喜んで良いのか悲しんで良いのか、わからなくなってしまった。
そのとき、うしろから軽く肩を叩かれたような気がした。ふり向くと、いつの間に
入ってきたのか、麓の老人が立っていた。
「なかなかやるな、奥さんは…」
そう言って、ニヤニヤ笑っている。
「おっさん、どこから来た?j
俺は非難の眼をむけた。半分はほっとしたのだったが、そんな気持は悟られたくなかった。
「なにね、ちょっと近くを歩いていたんだが、奥さんを見かけたんで、急になつかしく
なってな」
「家内を、知っているのかね?」
「この間、シャバに出たとき、ちゃんと確かめておいたさ」
老人は、それくらいは常識だと言わんばかりの顔をしている。おそらく、朝からずっと
ひき逃げの現場のまわりをうろついていたのだろう。俺は、ふと思い出して言った。
「玉石寿々子が出て行ったろう?」
「ああ、昼ころだったな」
「あれを、どう思うね?」
「難かしい、わしにも、まだよくは解っておらん」
と、老人は眉間にしわを寄せた。
「わかったことは、全部の中心が、やはりこのマンションにあるらしい、と言うことだな」
「何故だね?」
「先生、忘れてはいかんよ」
きびしい眼をして、老人は、俺をたしなめるように言。だ・ て
「今は“祭り"の最中だろう。いろいろなものが、みんな中心に向かって動く時だよ」
はっとして、俺は老人を見た。たしかに、これはただの“祭り"ではなかった。そこには、
何か凡智でははかり知れない、不思議なリズムがあった。過去と現在と未来と、シャバと
ゴーストエリアが、ちょうど時計の針が12時になってピタリと重なるように、動く
のである。この時に、301号室から寿々子が去り、加奈子が現れたというのも、決して
無意味な偶然である筈はなかった。
「まあ、見ていてごらん」
と、老人は自信ありげに言った。
「これから明日にかけて、まだまだ思いがけないことが起るだろうよ」
“祭り”は今夜と明日の送り火まで、あと二日を残している。どういうわけか、俺は
身体がふるえた。事件が解決の方向にむかうことが、かえって恐ろしかった。ゴール直前で、
乗っていた馬が、突然、転倒するのではないかという不安である。
だが老人は、平然としている。俺は落ちつかない気持で、加奈子をぬすむように見た。
そのとき、、思いがけなく部屋の電話が鳴った。
「あぁモシモシ、いいえ、玉石さんはもうお引越しになりました。えぇ、今日のお昼頃です。私は管理人
ですけど・・・、あっ、ちょっと待ってください」
顔を上げると、管理人は、受話器を片手で押さえながら言った。
「上の瀬川さんですけど、どうします?」 、 ̄゛。
「かして・・・」
と、加奈子が代った。
「もしもし、坊や? 駄目よ、今ごろまで寝ていちゃ・・・。いくら深夜番組専門だからって、
フッフッフッ・・・。今日は一人なの? あら、珍らしい!」
それから、瀬川の話が少し続いた。
「ふうん、じゃ、挨拶もしないで出ていったの? やられたわね。でも良いじやない、
どうせあれは、坊ゃなんかの手にはおえない女よ、ふっふっ・・・。とにかく、おりていらっしやいな、
待っているから…。えっ、あらそう!」
加奈子の顔色が、ちょっと変った。
「美歌の居どころがわかったって、まあ、どこ? 言いなさいよ、いいわ早くおりてらっしやい。
そうそう、その時お家賃もついでに持ってきて、忘れないでよ!」
加奈子は、勢いよく受話器を置いた。それにしても、ついでに部屋代の催促までするとは、
しっかりしたものだ。
いまの話では、どうやら美歌の所在がわかったらしい。俺の心臓は、たちまちドッドッと
音をたてはじめた。ふりむくと、老人も黙ってうなづいてみせた。事件は老人の言うとうり、
間違いなく、渦の中心に向かって回転しているのだった。
瀬川が五階からおりでくるまで、俺は老人とならんで、じっと紙屑のかげにうずくまったまま
待っていた。わづか七、八分だったが、ずいぶん長い時間に思えた。
管理人は、瀬川と入れ違いになって引き上げてしまった。死んだ自分の亭主が寝そべっている
管理人室のほうが、よほど気がらくなのであろう。
「ねえ、どこで見つかったの? あの子・・・」
加奈子も、流石にせきこんでたずねた。
「蒲田のパブみたいなところですがね」
あわてて洋服を着てきたらしく、瀬川は、ネクタイの結びめを気にしながら言った。
「ようやく突きとめましたよ。いゃもう、苦労しちやった。何しろ三ケ月以上になりま
すからね」
「ずいぶんご執心だったのね」
「狙ったら、とことんいくのが主義でしてね。むこうはまだ気がついてないんで、明日
あたり、アタックしてきますよ。でもね、とにかくひどい安キャバレーで・・・」
「何だってそんなところに行ったのかしら?」
「さあね」
瀬川は、下卑た笑いを浮かべた。
「まさか、あの事が原因じやないでしょうけど…」
「あの事って、何よ」
「うん、いやだなあ、ママったら…」
まるでおカマみたいな言いかたで、まったく嫌な野郎だ。
「例の、青梅街道の一件ですよ」
「ああ、あのことなら、坊やがいけないのよ。私がせっかくお膳だてしてあげたのに
いきなり乱交パーティに連れて行くなんて、いくら何でも無理よ」
「はい、十分に反省はしていますよ。だけどあの一件については、どうしても、腑に
落ちないところがあるんですよね」
寿々子と一緒に俺の仕事場に入って来た時から、瀬川がこの事件に何かの疑いを持って
いたらしいことは、俺も察していた。
「乱交パーティに連れて行ったくらいのことで、あの美歌が、簡単に店をやめるわけが
ない。何か、もっと奥があったんじやないかな」
「いったい、あんなパーティがあるなんてこと、坊やに教えたのは誰なのよ」
「わかってるでしょう? こいつですよ」
瀬川は、いまいましそうに、タタミの上に置きざりにされたままになっている黒い電話器を、
足の爪先でこづきながら言った。
「前の晩に、寿々子から電話がかかってきたんで…」
「へぇ!」
加奈子はさも驚いた、といった顔をしたが、どこまでが本気で、どこまでかおとぼけなのか
知れたものではない。寿々子のみえみえの演技と違って、この女には、何を考えて
いるのか見当もつかないところがあるのだった。
「ママには悪るかったけど、こっちの話も魅力ありましたからね。商売がら、美歌なら
かえって都合が良いと思って、僕の車で一緒に連れて行ったんです。そうしたら、いよいよと
いう時になってあの騒ぎでしょう」
「あの子も、パーティに入っていたの?」
「はじめは、おとなしくついて来たんですがね。乱交パーティとわかったら、頭にきた
らしくて、車からおりようとしないんです。仕様がないから、そのままにして僕だけ参加
したんで…、、二人分の会費はらって、馬鹿みちやった」
「あたり前ですよ。お粗末ねぇ」
「僕が行った時には、もう十五、六人集ってましたよ。ただ・・・」
そこで、瀬川は眼を閉じて、その時の情景を思い浮かべているようであった。
「ただね…。暗くてよくわからながたし、みんな仮面をつけていたから、断言は
出来ませんがね。あのとき、死んだ角田とかいう編集長は、どうもいなかったような気が
するんです」
「なんですって・・・?」
「まもなく、警察と言う声がかかって、とっさの場合ですから、みんな泡を喰って逃げて
しまいましたからね。だけど、人間が一人死んでいれば、いくら余猶がなかったと言っても
誰か気がつくでしょう?」
赤べこの名誉にかけて、俺はその言葉が正しいことを信じた。ふりむくと老人も、膝小僧に
顎をのせて、しきりにうなづいている。
「あの時集っていたのは、名前を出されては死ぬより困る連中ぱかりだった筈です。
僕にだって、ひと眼でそれとわかる女優が二人いましたからね。おかしいと思っても、絶対に
あとから名乗り出るような人種ではありませんよ」
「でも、パーティがあったことは事実なんでしょう?」
「そう、つまり痕跡だけは歴然として残った。あのパーティは、はじめから殺人現場を
作り上げるためのトリックではなかったかと思うんです」
なかなか、瀬川は鋭いところを衝いた。赤べこが乱交パーティと噛み合わないことは、
俺も以前から承知している。もともと屍体の棄て場所として仕組まれたものであったと
すれば、そのほうが、むしろ自然なのである。
「美歌が、一役買っていたと言うのね?」
「いや、連れ出しだのは僕ですからね。パーティがあることだって、美歌はその時まで
知らなかった筈です」
「じゃなぜ、“きゃら"をやめた原因が、あのパーティじゃないかって言うの?」
「僕の推理では、ふたつの場合があるように思えるんです」
ネクタイをもう一度キュッと締めなおして、瀬川はポーズをとった。それから指先を
妙なかたちにひろげて、肩をすくめた。こいつ、自分がシャーロックホームズにでもなった
ような気持なんだな。
「まず、第一の場合はですね」
と、瀬川は空っぽの部屋の中を、ゆっくりと歩きまわりながら言った。加奈子は、
面白そうにその様子を見ている。
「すなわち、美歌が被害者と同じ秘密を知っていた場合…。犯人にとって、何か重大な
動機があ。で、そのために編集長が殺されたのだとすれば、次には当然美歌が狙われる番
ですからね。それを知って美歌は身をかくした。被害者は“きゃら"の常連ですから、
このことは十分に考えられます」
「それで、第二の場合は?」
「そう、第二の場合・・・。ぼくはこのほうが、ずっと可能性が強いと思う!」
瀬川は半身に構えて、まともに俺の方向を指さしながら言った。
「つまり、美歌はあの晩、犯人を見た!」
俺は、吃驚した。だが俺はその前に殺されてしまったのだから、悪いけど犯人は俺では
ないよ。