第 四 章 ゴーストのカーニバル(4)
「うむ、まあ・‥」
「久野だな。あの野郎!」
俺が死んだ直後に、仕事場にもぐりこんで、覚え書きを盗み出しだのは、やっぱりあいつ
なのだ。だが実際には、久野はあやつり人形で、糸を引いているのはほかでもない、女房の
加奈子である。俺は、むかむかと怒りがこみ上げてきた。
「それ。で、書かせたのか!」
「いや…」
赤べこの返事は、何故か歯切れが悪い。暫らく考えていたが、やがて思いきったように
言った。
「あの話は、たしかに面白かった。久野は自分のネタのようなことを言っていたがね。
俺にはすぐに、久留さんの話だってことがわかった。でもネタが良いんで、このまま捨てて
しまうには如何にも惜しい。それで、つい…」
「やっぱり、書かせたのか…?」
「無理だよ。久野では、まだ荷がおもい」
俺は、意外な思いで赤べこを見つめた。この男は、ちゃんとそれだけの眼を持っていた
のか…。ずいぶん失礼な奴だと思っていたが、見るところは見ていたのだな。
「久野には、久野にあった作品を書かせておけば良い。それで…、今となっては面目ないが、
あのネタは、俺か自分でいただくことにした」
「どういう意味だ」
「久留さん、そう怖い眼で俺をにらむなよ。つまり、ペンネームを使って、俺が書いて
みようと…」
「こいつ…!」
俺は、思わず大声を出した。そして笑った。何だか、心が急に軽くなったような気がした。
「ひどい野郎だ」
「すまん…。だが俺も、久留さんの話を丸呑みにしてしまったのでは、原作者に対して
申し訳けないと思って、それで…」
「原作者というのは、私のことかね?」
「それはそうさ」
俺は、うつむいてしまった。俺も赤べこも、古いもの書きの世界に生きてきた人間である。
自分白身に対して恥かしかったが、真相は、誰にも言えないのだった。
「それで 俺は当の本人から、直接取材することにした。三日ばかり前から一応申しこんで
おいたわけだが、“きゃら"で、俺が死んだ日に取材した相手というのは、実は玉石寿々子だ」
「ほう! 寿々子は納得したのかい?」
「案外、あっさりしていたようだったな。書かれることは仕方がないが、できるだけ、読者の
同情を引くように書いてくれと言って承知したよ」
「ふうん…。ほかに変った様子は?」
「べつに…。ただ、死んだ子供が可哀想だと言って泣いていた。本人は、ほとんど飲ま
なかったが、先払いでレヂに十万おいて行ったよ。おかけで遠慮なく飲めたわけだ…」
編集長のくせに、さもしいやつだな。酒呑みは、これだから困る。
赤べこが、玉石寿々子にインタビューしたというのは初耳である。それにしても、俺が
死んで三日目の夜、覚え書きをもみ消そうとして、仕事場を漁ったほどの女が、赤べこには
あっさりと承知したというのは、何となく割りきれないような気もした。
「恐ろしいことだな」
それまで、黙って俺たちの話を聞いていた老人が、口を出した。
「先生は、編集長さんに、その小説の話をした夜に、殺されてしまった。すると今度は
編集長さんが女優に話したとたん、その晩のうちに…」
「偶然だろ?」
赤べこが、無雑作に言った。
「おもて側だけを見れば、そうかも知れない。だがあれは特別の小説なんだよ。久野久雄も、
殺ろされた晩、必らず誰かにこの話をしている筈だ。恐ろしい因縁だよ」
老人が得意の、因縁ぱなしだった。が、俺は笑えなかった。赤べこと顔を見合わせると、
背筋にぞくっと悪感のようなものが走った。筋書きをしゃべると殺ろされてしまう、そんな
馬鹿らしい話を、最初に言い出しだのは加奈子である。いったい、どこにこんな必然性が
あるというのだ…。先程の勇ましさはどこえやら、俺は、沈肩な気持で黙リこくってしまった。
胸のなかに、ひとつの忌まわしい想い出が、あったのである。
それは、まだ俺の苦闘時代、翠が生まれてまもない頃のことであった。そのころ、俺たちは、
四畳半ひと間に押入れと台所が半間という、最低のアパートで生活していた。結婚式も
あげられない文学青年と、フーテン同様の女党員の同棲である。翠はそこで生まれ、
俺は、昼は雑誌社をまわり、夜は子守りをしながら、売れない小説を書いていた。
加奈子がパーに勤めはじめたのだが、生活はギリギリであった。そんなとき、翠が風邪を
引いた。生まれれてやっと、六ヶ月めである。流感がこじれて気管支をやられ、肺炎になった。
入院させたくても、金がなかった。
病状は一進一退で、十日間ほど、徹夜の看病が続いた。薬代のために、食料が買えなか
った。俺と加奈子との間に、凍った黒い風のようなものが吹き抜けて行ったのは、その時である。
二人だけしか知らない、身の毛もよだつような冬の夜の出来ごとであった。
そしてその夜かぎり、俺たちは互いにあたため合い、心を許し合うということがなかった。
俺がポルノ小説に転向したのも、強いて言えぱそのことが原因である。
17年と言う歳月のなかで、俺は忘れるともなく忘れていたのだったが、加奈子は今になって、
それを“ポルノ小説殺人事件”として再現してみせたのではないだろうか・・・。
たとえ偶然であろうと、因縁であろうと、これは俺に対する痛烈な告発であった。
「先生、乗りかえだよ!」
耳もとで、突然、老人のバカでかい声がした。俺は吃驚して、思わず前の席にいた若い女の
胸にしがみついてしまった。
やがて、六郷土手につくと、河原で盆踊りの太鼓が鳴っていた。
運動場のような広場に、櫓が組みたてられ、浴衣姿の女の子や子供の手を引いた家族連れ
など、シャバの運中がまわりを取りまいている。屋台も何軒か出ていた。東京にもわずかに
残っている、季節の風物詩である。
だが、真に凄さまじいのは、ひろびろとした河原一杯に集ったゴーストたちの群れであった。
どこらやって来たのか、俺は眼を見張った。
過去をさかのぼると、この河原の附近だけでも、これだけの人間が死んでいる。そして、
二度とシャバに浮かび上ることも来ずに、彼らはゴーストタウンの草葉のかげに身をひそ
めていたのだ゜シャバに帰ることは、もうあきらめてしまって、年にー度の施餓鬼供養だけを
楽しみにしているのであろう。群れは、刻々とその数を増していた。今日一日、飽食した
彼らは、盆踊りの太鼓の音を幕って、どこからともなく集ってくるのだ。六郷の土手
に登って、広い河原を見わたしながら、爺さんも赤べこも、さすがに眼を丸くしていた。
まさに、ゴーストのカーニバルである。
シャバの連中には見えないだろうが、これは、決して出鱈目ではないよ。
八万宝蔵と言われる釈迦の経典の中に、盂蘭盆経というのがある。ウラバンナという
原語から訳されたものだ。
釈迦の高弟で、神通第一と称された目連尊者の母を青提女と言った。目連がまだ凡夫の
頃、母は堅貧の罪で餓鬼道に堕ちた。ある日、目連尊者が天眼を用いて三悪道を見ると、
まるで氷の下の魚を透かすように、母の苦しむ姿が見えた。飲むことなく、喰うことなく、
骨と皮ばかりになっている。あまりのことに驚ろき悲しんだ目連尊者は、ただちに神通力
を現じて、母に食物を送った。よろこんで、食物を手でかくし、口に入れようとした瞬間、
それは一団の焔となってぱっと燃え上り、青提女の身をごこごこと焼いた。驚いた目連尊者は、
すぐ水をかけたが、水はたちまち薪と変じて、母の全身を包んだ゜神通力のかなわぬ
ことを知った目連尊者は、直ぐに釈迦のもとに走り、救いを乞うた。
その時に、仏説いて曰く、“汝の力及ぶべからず、天神、地神、邪魔、外道、道士、四天王、
帝釈、梵王の力も及ぶべからず、ただ七月十五日に十方の聖僧をあつめて、百味おんじきを
調えて母の苦をば救うべし“と、これが盂蘭盆会の原典である。
もちろん、譬諭だ。しかしゴーストになってわかることだが、青提女は、無数にいる。
その苦しみも、決してこのたとえに劣るものではなかった。
七月十五日と指定されたのは、その日が無限大の宇宙と、生命法則のリズムが合致する
時であり、十方の聖僧とは、大いなる善の意だ。そして百味おんじきとは、その善根の供養
である。ただ仏壇になすびや胡瓜を供えていればそれで良い、というものではないよ。
俺たちは、六郷の土手に立って、暫らくの間、呆然としてゴーストの群れを見わたしていた。
このなかから、たった一人の久野久雄をさがし出すことは、まったく至難のわざのように思えた。
西の空にあったかすかな赤味が、やがて薄墨色に変り、白い月が中天にかかって、次第に
こうこうたる光を増していた。地の底がふるえるような、ゴーストのおめき声が昂まってきた。
俺は、老人と赤べこに合図を送ると、土手を馳けおり、ゴーストの群れのなかに入った。
めざすとろは、久野久雄が血まみれになって死んでいた、あの地点である。そこは
川の流れにほど近い、盆踊りの櫓からはかなり離れた場所であった。
俺は、黒い煙リのようなゴーストの気配を、かきわけるようにして歩いた。
彼らは、時闇というものの概念を、完全に異にしていた.あるものは江戸時代であり、
あるものは明治だった。なかには、得体の知れない太古のゴーストも混ざっていた。彼らは、
それぞれ自分の感覚で行動しているのだったが、お互いに第三者になると、それはただの
気配であリ、寂漠たる非物質の世界だった。
もっとも多いのは、戦争による犠牲者である。身におぼえのない理由で、ゴーストとなった
人々の嘆きは悲惨だった。とうてい、青提女などの比ではなかった。戦争はゴーストをつくる。
彼らは英雄としてまつられるどころか、悪鬼と化して、永遠にシャバを呪い続けて
いるのだった。
若いゴースティンが犯されていた.彼女は、低抗する意志も失せて、河原に横たわり、
うつろな眼で冷い月を見上げていた.そのうしろで、五、六百人のゴーストが、列をつくって
順番を待っている。だが誰も、そのことに関心を持つ者はなかった。
突然、時代のわからないのが、俺に襲いかかってきた。軽く体をかわすと、奴はつんのめって、
すぐ別のゴーストに向かってとびかかっていった。彼は一晩中、こうして誰かに喧嘩を
売っているのだった。
盛装したゴーストの一団が、ダンスパーティをやっていた。圧倒的に中年のゴースティンが
多い。うっかり近づくと、たちまち踊りに巻きこまれて、バラバラに分解されてしまいそうで
あった。軍人らしいのが、敵の首を提げたまま、さまよっている。その横で、鶏の羽を
むしったように痩せた子供が、母の名を呼びつづけていた。心中死体らしいカップルが、
踏みつけられてペチャンコになっても、まだしっかりと抱き合っていた。
それぞれが、他には全く無関心に動き回っているのだった。そして全体が、巨大な
阿鼻叫喚となって、地を揺るがせている。
だが俺たちは三人とも、初盆である。力はまだ十分に残っている筈であった。こんな連中と
同じになってたまるものか・・・。
俺は道をいそいだ。うしろから、老人が意外に元気な様子で続き、すこしおくれて、赤べこが
息を切らしていた。
目的の場所につくと、そこはゴーストの数も、それほど多くはなかった。俺たちは、
さっそく手わけしてさがしたのだが、久野久雄の姿は、やはり見あたらないようであった。
俺は、天を仰いだ。
死の象徴のような月の光が、こうこうとして、河原に冴えわたっていた。地には風を
はらんだ帆布のように、黒い気配がむくむくと波うっている。
何故か、その時何故か…、俺は大声で、加奈子の名を呼んだ。