第 五 章 精霊流しの夜に (1)
俺は、そのとき何故、加奈子の名前を呼んだのか、自分でもわからなかった。決して救いを求めた
わけではない。ただ、俺が本当に赦しを乞わなければならない人間があるとすれば、それは
それは加奈子に対してであった。そのことは、誰も知らない。俺の心の奥底に眠っていた
良心が、突然噴き出して叫び声を上げたとしか、言いようがなかった。だがその声は、
現実の声とはならず、そのままゴーストのどよめきの中に消えてしまった。もちろん、
加奈子の胸の片隅にも、とどかなかったことであろう。
月は亮々として照り、ゴーストたちの動きは、ますます盛んになっていた。太鼓の音が、
川面を遡のぼってこのあたりまで聞える。俺は、事件の全貌が次第に姿を現わしつつある
ことを感じた。おそらく、今夜から明日の精霊流しにかけて、生命の根底より発した、
この因縁に満ちた事件は、終章のメロディを奏でるであろう。それは死刑とわかっていて、
判決を待っている囚人のような気持だった。絶対に偽ることの出来ない、自己の生命と対決
する恐怖である。
俺は、ぼんやりと遠くに見える盆踊りの櫓の灯を見つめていだ
「おらんぞ! 先生」
老人の影が、急ぎ足で近づいてきて声をかけた。今夜ばかりは、流石に緊張しきった顔をしている。
「何をしているんだね、先生、早くつかまえないともう時間がない・・・」
「わかっているよ」
俺は、沈んだ声で言った。
「久野はもう、こんなところには居ない・・・」
「いない? まさか阿佐ヶ谷の奥さんのところで、寝そべっているわけでもあるまいに・・・」
「加奈子は、唯物論者だよ」
俺は思わず苦笑して言った。
「死んだ久野のことなんか、これっぽっちも思い出したりするものか…」
「ではどこだ! 先生、わかっているのかね?」
「あそこだ・・・!」
俺は、シャバの灯がチラチラと明滅している、櫓の方角をさした。
「私の感覚に間違いがなければ、久野はきっといる。美歌のアパートに行ってみよう」
あっと老人がうなづく.太鼓の音が、急に高くなったような気がした。すぐに赤べこを
呼び戻して、三人は道を急いだ。
久野久雄は美歌のアパートに居る。それは俺の直感であった。二人がどういう関係に
あるのか判らないが、久野が行くことの出来る場所といったら、そこしかないと思った。
河原での騒ぎを後に、俺たちは土手を越えて、美歌のアパートに向かった。
露地を曲がると、同じような木造モルタルの二階建てが軒を並べている。マンションと
違って、屋根のうすい安手のアパートである。美歌は、その露地のつきあたりに、部屋を
借りていた。
先を歩いていた老人が、足をとめ、うしろ手に俺たちを制した。月の光にすかして見ると、
二階に昇る階段のところに、かすかな黒い影があった。背をまるめ、頭をかかえるようにして
うづくまっているのは、変り果てた久野久雄に相違ない。こちらの気配に気づかれないように
階段の下に近づき、赤べこが声をかけた。
「おい、久野君・・・!」
久野は、痴呆のような顔を上げた。俺は、思わず眼をそむけた。ゴーストとして、久野は
宿無しの一歩手前までおちている。
けげんそうに、久野は焦点のない視線をむけた。名前を呼ばれたことが、まだはっきりと
呑みこめていないようであった。俺は、一歩前に出て言った。
「久野! おりてこいよ。美歌は もうそこには居ないぞ…!」
とたんに、久野は眼をくわっと見ひらき、口をパクパクと開けた。全身に恐怖の色を
浮かべて、うつぶせに階段にしがみついてしまった。今日まで、あれほど怒りを感じていた
筈なのに、俺は何だかむなしさがこみ上げてきた。あまりにも情けないなれの果てである。
こんな男に、シャバで何が出来るというのだ・・・。
老人が一人で階段を上り、いっそうしがみつこうとする久野を、なだめすかして降りて
きた。三人にとりかこまれると、惨めなゴーストは、腰を抜かしたようになって、その場に
しゃがみこんでしまった。まるで、子供が駄々をこねているのと同じだ。
こいつ、本当に怖わがっているのか、ひょっとすると、芝居をうっているのではないか、
俺は警戒しながら、わざと厳しい顔を作って言った。
「お前には、いろいろと聞きたいことがある。とにかく、われわれと一緒に来てもらいたい」
「勘弁してくれ…!」
「何もするわけじゃない。話を聞かせてくれれば良いのだ」
「いやだ、赦してくれ、怖いよ…」
赤べこが業をにやして、荒っぽく久野の腕を取った。
「いいから来いよ! あんなのためだぜ」
怯えてともすればへたりこもうとするのを、引きずるようにして、俺たちは土手に登った。
手頃な場所を決めると、真ん中に久野を据えて、車座になった。覚悟を決めたのか、
久野は、ふてくされたようにうつむいている。すぐ横で、全裸のゴースティンが、太鼓に
合わせて踊り狂っていた。俺は、そんなものには眼もくれずに、この不肖の弟子を見すえた。
「必要なことだけを聞こう。いったい君は、誰に殺ろされたのだね?」
「そんな…、なんで…」
「必要なことだと言ったろう!」
久野は落ち着かない様子で、キョロキョロと辺りを見回している。波のように押し寄せてくる
ゴーストのおめき声が、一層久野の恐怖をかきたてるのであろう。
「早く言え!」
と、赤べこがはっぱをかけた。
「美、美歌だよ。」
「本当か…!?」
俺は本気になって、たたきつけるように言った。
「嘘つきゃがったら、承知しねぇぞ!」
久野は、泣き出しそうな顔になった。
「嘘じゃないったら、ボ、僕は、美歌に殺ろされたんですよ」
信じられない…。久野か殺された時には、美歌はあのアパートからすでに消えていたのだ。
あの朝の光景が、まざまざと蘇えってきた。
美歌は、久野とどういうつながりがあったのだろう。男のくせに、久野は酒が呑めない。
“きゃら"に出入りしたのも、つき合いでせいぜい二、三回くらいのものであろう。
とても、美歌とそれほど親しくなれるとは思えないのだ。俺は、何かもうひとつ、奥がある
ような気がした。久野がまんざら嘘を言っている様子もないところから、万一、美歌に
殺される理由があるのだとすれば、やはりあの覚え書き以外には考えられないのだ。
美歌は何故、あの覚え書きの存在を知っていたのか。そこにはまた、加奈子のくろぐろとした
影が、覆いかぶさっているのだろうか・・・。
「私が死んだ後で、仕事場に入リこんで覚え書きを盗み出したのは、君だな?」
俺は、あえて盗むという表現を使ってみた。
「ち、ちがう! 僕の責任じゃない」
久野は、子供がイヤイヤをするときのように、首を振った。
「あれはただ、加奈…、いや奥さんが持ってこいというから、そのとうりにしただけ
なんです」
「加奈子が…?」
「そうですよ。僕に面白いネタを上げるからと言って…」
「ふん、それを何喰わぬ顔して、俺のところに持ちこんだわけだな?」
赤べこか、吐き出すように言った。
「だって、読んでみたらワリと面白かったんで…、でも、ちゃんと奥さんの諒解を得て
いますよ」
「無理だよ。あんたのガラじゃない」
「奥さんが、是非書いてみろと言ったんですよ」
久野はひらきなおった。
「僕のガラではないと言われたって、何も小説ホリデーだけが雑誌じやあるまいし…」
「何だと・・・!」
赤べこがいきりたつのを、老人があわててとめた。
「うむ、そうかい・・・」
加奈子は、ポルノ小説殺人事件を、どうしても発表させたかったのである。その埋由が
俺にも何となく、読めたような気がした。 、
あの時点で、玉石寿々子は、すでにスターであった。俺や赤べこならともかく、もし
久野が書いたとすれば、内容はますますえげつなく、どぎつい迫力をもった作品になるだろう。
それはとりもなおさず、あの女優を社会的に葬り去ることを意味する.加奈子は、俺と
玉石寿々子との関係を、とうの昔に感づいていたのではないだろうか…。あのストーリーは、
俺に対する告発であると同時に、寿々子への痛烈な復讐の時限爆弾であった。
だが、美歌と久野との関係となると、依然、暗中摸索だった.俺は、あらためて久野に
聞いた。
「君は、いつから美歌とつきあっていたんだね?」
「知りませんよ.そんな人…、ただあの日は向こうから電話がかかってきたんで、それも、
三回もですよ」
「美款から…?」
「そうですよ。ポルノ小説殺人事件の原稿を買いたいと云って…、僕は、うっかり乗せられて
しまっただけなんだ」
「いくらで、買うと言ってきたんだ?」
「五百万…」
俺は、赤べこと顔を見合わせた.もちろん、作品として書かないという意味であること
はわかるが、あんな下らない覚え書きひとつに、それは法外というより、全く餌としか
思えない出鱈目な値段だった。
「おかしいじやないか、君は、そんな話が現実にあるとでも思っていたのか・・・?」
「僕だって、おかしいと思いましたよ。電話のたびに、向こうから勝手に金額を
吊り上げてくるんてすから、警戒はしたんですが、ただ・・・」
「ただ、何だね?」 -
「夜中の一時に、六郷の河原で待っていてくれと言われた時には、これは、まぁ、
話半分としても面白いことになるんじゃあないかと・・・」
「色仕掛か・・・、ふん」
赤べこは、軽蔑しきった顔で笑った。河原のド真ん中で、灯火ひとつ点いこいない、
今どきの東京には珍らしい暗黒地帯である。夜ともなれば、力ーセックスの名所になることは
俺も知っていた。
しかし、まだ合点がいかなかった。自惚れるわけではないが、美歌は俺に惚れ抜いていたと言う。
そう簡単に、肉体まで提供する気持ちになるだろうか。まして、久野は俺の弟子なのである。
五百万と言う金額だって、始めから理解できない。
「どっちみち、殺すつもりだったんだ」
と、老人が言った。
「色と欲の両天秤で、わかりきったことさ、こんな手にひっかかるなんて、あんた、
よっぽどのお人よしだねぇ」
爺さんに皮肉られて、久野は何とも言いようのない顔をしていた。
待てよ・・・、と、そのとき俺には奇妙な連想が浮かんだのである。こうして 手をかえ
品をかえ、自分のぺースに引き込もうとするのは、加奈子より、むしろ玉石寿々子が
やりそうなことではないか。念のために、俺はもう一度聞いた。
「たしかに、美歌がやってきたのかね?」
「だって、あそこで逢うことを知っているのは、本人のほかにいない筈でしょう」
「それはそうだが・・・、で、美歌はどんな服装をしていた?」
「暗かったから、こまかいところまでは言えませんがね。たしか、濃い赤のワンピース
を着ていました」
それは、俺が殺された夜に、美歌が着ていたものと同じであるようにも思えた。
「駐車灯をつけて、待っていてほしいと言うので、その通りにしておいたら、すこし
遅れて車でやってきました」
「くるま…?」
老人が甲高い声を出した。赤べこも、ぐっと身を乗り出す。
「ど、どんな車だ?」
「ライトがこっちを向いていたから、よくわかりませんよ。ちょうど僕の車の真後で
停まると、ライトを消して歩いてきました。それで、助手席のドアを開けてやったんです。
美歌は、脚のほうからスルリと入ってきて…」
そこで久野は、ゴクリと唾をのみこむようなしぐさをした。
「いきなり僕の首にしがみついて、キスをしたんです。そりゃ、よかったですよ。
すっかり本気になってしまって、まあ、われを忘れたというか…、そのとき、美歌が手に
カミソリを持っていたなんて、夢にも考えませんでした」
「そいつで殺られたんだな?」
「あっと思った時には、頚動脈切断で、血がもの凄い勢いで噴き出していたんです。
それきり何もわからなくなって、気がついた時には、顔の上に、べったりと紙を貼リつけられて
死んでいたんです」
そのとき血が大量にでてしまったせいか、久野は細い肩であえぎながら、俯いている。しばらく、
重苦しい沈黙が流れた。かたわらで、全裸のゴースティンが、まだ踊り続けていた。ヘトヘトに
疲れ果て、表情は苦痛にゆがんでいたが、肉体だけが踊り狂っているといった感じだった。
「その車だ・・・!」
やがて、老人がうめくように言った。
「全部、その車だ。わしをひき逃げしたのも、先生を殺ったのも、編集長さんを運んだ
のも、全部その車だ」
そして、その車には、最後に美歌が乗っていたという。運転免許証があるとは聞いてい
たが、美歌は果たしてこれだけの事件の主役だったのだろうか・・・。
「わしにも、ひとつだけ聞かせて貰いたいが・・・」
老人はひかえめに言った。
「もしや、あんた、昼間のうちに特別の小説の話を、誰かにしなかったかね?」
久野は、ふるえながら黙っている。
俺は思い出した。あの日は、雨が降っていた。久野は神楽坂の“第六茶房"で、岸本と
いう編集の次長とー緒に話しこんでいたのだ。赤べこが乱交パーティで死んだと知ったのも、
あの時である。
「編集次長の岸本を知っているだろう」
俺は、真綿で首を締めるように言った。
「重役と芸者なら春本で、SMや乱交パーティはポルノだという意見をどう思うね?」
「そ、そんなこと、僕は…」
よろよろと立ち上りながら、久野はわめいた。
「僕はただネタを売ってこいと、加奈子に頼ままれただけなんだ。僕の責任じやない!」
「あいつは温和しいからな。おそらく、乗らなかったろうよ」
赤べこが冷たく言った。結局、岸本が乗らなかったので、美歌からの電話にとびついた
のであろう。
「恐ろしい、因縁だよ…」
老人の口ぐせが、ポツンと出た。事件は全貌を見せたとは言え、すべて、殺された側からの
展開であった。ゴーストとして、これ以上はどうすることも出来ない壁なのである。
あとは老人の言うとうり、ひとつひとつのもつれあった因縁の糸を解いてゆくよりほかに、
真相を知るすべはないのかも知れない…。
中天にかかっていた月が、いつの間にか傾きはじめて、太鼓の音も途切れがちになっていた。
シャバが眠ってしまうと、あとは明け方まで、ゴーストだけの阿鼻叫喚がつづくのである。
それはあまりにもなまなましい、修羅と、餓鬼と、畜生との饗宴であった。
明日の夜になれば、また、草葉のかげに身をひそめなけれぱならないことがわかっていながら、
彼らは、あとの苦しみを増すだけのために、狂奔していた。
全裸の踊りも、一層はげしくなっている。
「先生、行くかね?」
老人が、ゴーストのうねりを顎でさしながら言った。だが俺は首を振った。サトミのことを
思えば、束の間の快楽に身を任せることなど、その気にもなれない。