第 五 章 精霊流しの夜に (4)
阿佐ヶ谷に着いた途端に、夕子と美歌が現れたことは、俺にとっても大変なショックだった。
死の直前まで、一緒にいたのがこの二人なのである。
「先生、大丈夫?」
車の中から、美歌が心配そうに俺を見上げながら言った。これが、生きている俺がシャバで聞いた
最後の言葉である。あとは“きゃら”でも、六郷土手のアパートでも、俺が行くたびに
美歌は消えていた。その美歌が遂に姿を見せたのである。俺は、事件がいよいよ土壇場に来た
ことを感じた。
「どうぞ…」
馳けるようにして夕子が行ってしまうと、加奈子は低い声で言った。
今度こそ不覚をとるまいと、俺はますます緊張して、美歌のあとにつづいた。階段を昇
るとき、ふと気がついたことだが、美歌が通ったあとのまだ揺れている空気のなかに、
香水にまざって、かすかなアルコールの匂いがただよっていた。
「あら、困ったわね」
部屋に入ってから、美歌が持ってきた花束をわたすと、加奈子は冷たい笑いを浮かべ
ながら言った。
「私、無神論者だから、家にはお仏檀なんかないのよ。でも良いわね。それだけのお話
でわざわざ来てくれたわけではないんでしょうから…」
無雑作に受けとって、加奈子は階下におりた。おそらく、洗濯機の中にでも放りこんで
おくつもりであろう。花束は、白と黄の菊であった。
美歌は、大きく胸のあいた絹のワンピースを着ていた。なめらかな肌の隆起がまぶしかった。
プラチナ台にルビーをあしらった、かなり豪華な指輪をしてる。マニキュアも朱に
近い赤であった。昔から赤のよく似あう女である。
加奈子はすぐに戻ってくると、向いあってすわり、左の手をトンとテープルの上に置いた。
いつ買ったのか、指に1キャラット以上はありそうなダイヤが光っていた。階下におりて
行ったのは、これをはめてくるのが目的だったのである。こうして、美歌と加奈子は、
ちょうど、死んだ俺の席をはさんで、向かいあうかたちになった。
二人の女には、間違いなく空席に見えたであろう。だが、俺はそこにいたのだ。両肘を
テーブルに乗せて、身じろぎもせず、じっとこの場の成り行きをうかがっていた。
「もう、御存知のことだと思いますけど・・・」
と、美歌が口をきった。
「昨日、瀬川さんにお会いしました」
「へぇ、あの坊やに? それはまぁ・・・」
加奈子は、ケロリとしたものであった。
「どこでかしら、聞いていなかったわ」
「突然お店に来て、私と、亡くなった先生とのことを、くどく聞かれたんです。困りましたわ。そのときの口ぶりでは、
私、奥様にも誤解されているような気がして・・・」
気がして・・・、どころではない。ありもしないことを吹き込んで、瀬川の気持ちを煽り立てた張本人が、
加奈子なのである。
「べつに、誤解なんかしていませんよ。坊やのほうで、勝手に何か思いこんでいるだけじゃないの。
だけどね・・・」
加奈子の顔から、笑いが消えた。
「あなたもいけないのよ。身におぼえがなければ、どうして逃げたりかくれたりするの。
だから坊やだって・・・」
「逃げたつもりなんかないわ!」
「では、どうして“きゃら”をやめたの?」
「先生を殺した犯人を、知りたかったからです。それも、本当の犯人を・・・!」
俺は、かっと目を開いた。うれしかった。酔っ払ったあげくの心臓麻痺なんかではなく、
俺が殺されたのだということを、美歌は知っていたのだ。
だが、加奈子は動じなかった。
「それで、わかりましたか・・・?」
「えぇ、たぶん・・・」
「誰なの、本当の犯人というのは・・・?」
美歌は唇を噛んだ。そして、ズバリと言った。
「もちろん、奥さまですわ!」
「私は、久留島を殺したおぼえなんか、ありませんよ」
「直接、手を下した犯人は、別にいます」
「玉石寿々子でしょう?」
俺は、自分を殺した犯人の名前を、ここでもまた聞かされたのである。だが、何となく
拍子抜けしたような気持だった。加奈子も、あたりまえのような顔をしている。
「だけど、あの人をそこまで追いつめてしまったのは、奥さまなんです!」
「偶然にそうなっただけよ。久留島が、バカだから…」
「どうして、奥さまは先生がそれほど憎いんですか!?」
「夫婦の問題だわ」
冷然と、加奈子は言った。
「他人さまから、口をはさまれる筋合いのことではないの」
「そうかも知れません。でも、そのために先生は、先生は殺ろされてしまったんです」
美歌は、つとめて冷静になろうとしている様子だっだ
「あの晩お電話したとき、奥さまは、ちょうどお帰りになったばかりのところでした」
「あら、そうだったかしら…?」
「私が、先生を四谷のマンションまで、お送りしましょうかと言うと、奥さまは・・・」
「そう、たしか、そんなことしなくても良いから、玉石寿々子に電話して迎えに来させて頂戴って
言った筈だわ。そのお寿司屋さん間で・・・」
「はい、私、その通りにして待っていたんです。うしろにあの人の車が来ているのを
確かめてから先生とはお別れしたんですけど、やっぱり、嫌な予感がして・・・」
それが、あの時三十分待てといった美歌の言葉の意味だったのか、俺が乗ったのは、はじめから
寿々子の車だったのである。
「次の日、新聞を見て、絶対にそんなことはないと思ったんです。私、自分がやったことが恐ろしくて・・・」
あるいは美歌も、 寿々子の殺意や加奈子の目論見に、うすうす感づいていたのではないだろうか。
だとすれば、先生を殺したのは私だと夕子に言った意味も、あながち言葉のあやと言うだけでは
ないのだ。
玉石寿々子を迎えに来させようと言う加奈子の電話に、美歌の胸に嫉妬の炎が燃えなかったとは
言えないのである。
真っ赤なマニキュアの指を曲げて目尻を押さえながら、美歌は続けた。
「青梅街道のへんなモーテルであの人の姿を見たとき、私、全部わかったんです。あの人は、男装をしていました」
「それで身を隠したのね。もし見られたことを知ったら、今度はあなたが狙われるでしょうから・・・」
「奥さまは、それもお望みだったのではありませんか!」
美歌は、必死の顔をあげた。
「あの晩だって、瀬川さんが私をあんなところに連れて行くのを、奥さまは十分にご承知だった筈です」
「私の差し金だったというのね?」
「・・・・・・・・・」
「あれは、坊やがあなたにひどく御執心だったから、ちょっと利用してみただけ、ごめんなさいね。テレビの
番組を掴むのも、楽じゃないのよ」
「ポルノ評論家とかになるのは、そんなことまでなさるんですか」
美歌は、精一杯の皮肉をこめて言った。だが加奈子には、ほとんど通じなかったようである。
俺は銀座のウインドゥで見たテレビの画面を思い出してしまった。瀬川がプロデュースしているあの番組は、
おそらく加奈子のデビューだったのであろう。
「久野さんも、先生が残した覚書から、同じような小説を書こうとしていました。きっと奥様がそう仕向けた
のでしょう。あの人は追い詰められて、あの晩のガス事故の真相を公表しようとした人たちを、次々に
殺さなければならなくなってしまったんです」
「本当に書かれたら、女優生命の終わりだけでは済みませんからね」
「そしてそれをやらせたのは、奥さまなんだわ!」
「偶然に、そうなってしまっただけよ」
加奈子は、ニヤニヤッという例の笑いを浮かべた。
「私は、決してそんなつもりで坊やを唆したわけではないわ。あなたがどう考えようと、久留島があの事件の
真相を知っていて、それを小説に書こうとしたなんて、買かぶりよ」
俺は、加奈子の恐ろしさを見にしみて感じた。同じように買いかぶりと言っても、寿々子が言うのと加奈子が
言うのとでは、全然その意味が違うのである。
もともと、あのアイデアは加奈子のものであり、覚え書きは、事件が起きる前から、すでに
出来上がっていたのだ。そんなストーリーにやすやすと乗せられて、玉石寿々子ともあろう
人気女優が、どうして人殺しに走り回らなければならない破目になってしまったのか、そこのところが、
俺にはどうしても理解することができない。
「何故、警察に行かなかったの?」
美歌がちよっと言葉につまると、加奈子は、気持を見すかすように言った
「久留鳥の名前が出るからでしょう。あなたは好きだったものね、久留島と、玉石寿々子の
スキャンダルが表沙汰になるのが、厭だったんじやない?」
「それは、尊敬していました。でも私、先生とそれ以上のことは・・・」
「それ以上のことって、何よ!」
わづかな言葉尻をとらえて、突然、加奈子は反撃に転じた。
「あたり前でしょう。今さら何を言っているの? 間違えないで頂戴。私はやきもちで
言っているわけじゃないのよ」
加奈子はすわりなおした。
「あなたさっき、どうして久留島がそんなに憎いのかって聞いたわね。理由を教えて
あげますから、それで納得して頂戴。今まで、誰にも話さなかったことだけれど・・・」
遂にきた・・・。覚悟はしていたことだが、俺は、総身にあぶら汗がにじむような感覚をおぽえた。
「久留島はね、殺人者なのよ…」
加奈子は、これまで見せたことのない暗く沈んだ眼で、美歌を見すえた。
「尊敬していたなんて、体裁の良い言い方だけれど、久留鳥の本当の姿はそんな言葉では
とても言えない。たった一人のわが子を、自分の手で殺そうとした男よ! あなたが、
信じようと信じまいと・・・」
美歌の顔から、スーツと血の気が引いた。
「翠が産まれたばかりだったから、ちょうど、今から17年前…」
加奈子の話し方には、恐ろしいほどの迫力があった。その歳月、つもりにつもった苦悩の
重さでもあろうか…。
「私は、池袋の場末のバーにつとめていたのよ。プスでしょう、だから“きやら"みた
いな高級なお店には行けなかったの。帰ってくるのは、毎晩のように一時か二時で、そんな
どうしようもない生活が、三ケ月くらい続いていたわ…」
翠が病気になったのは、その時である。俺は“超時代"という名前の同人雑誌に、原稿を
書いていた。原稿料は、ゼロであった。とにかく、加奈子が必死になって、生活をささえていた。
「翠の病気は肺炎でね、高い熱が出たの。私は心配だっだけれど、その日の稼ぎで喰べて
行くのがやっとだったから、仕方がないわ。十日目くらいになって、とうとう我慢が出来なく
なって、お店を早引けしてアパートの部屋に帰ってみたの・・・」
そのとき、俺はベニヤ張りの出入り口の扉に背を向けて、いつものように、金にならない原稿を書いていた。
二月の、寒い夜であった・・・。
すぐうしろに翠が寝ている。一組しかない敷きっぱなしの布団の横に、粗末なベビーベッドがあった。
翠は時々、力のない乾いた声で泣いた。十日も続いた高熱と、ミルクを全部吐いてしまうために、
衰弱しきっているのだった。
もうすぐだ、もうすぐに楽になるよ、と自分に言い聞かせながら、俺は原稿用紙に無意味な文章を
羅列していた。眼の前の開け放した窓から、猛烈に冷たい風が吹き込んでくる。俺は鼻水を啜り上げ、
掛け布団を引きずり寄せて身体に巻いた。ストーブが消してあるので、部屋全体が凍りついたように
冷え切っていた。
時折、俺はベッドの中を覗き込んでみた。はじめ、異常なほど赤くなっていた翠の肌が、次第に白く
変わっていた。堕ろすにもまとまった金がなくて、どうしようもなく産まれてしまった子供なのである。
時間は十時過ぎ頃であったと思う。
突然、ベニヤの扉の鍵がガチャガチャと鳴っだ。俺のほかに鍵を持っているのは加奈子しかいない。
はじかれたように立ち上った時は、もう遅かった。加奈子は気が狂ったようにベッドに馳け寄り、
素っ裸の、唇の色まで白く変った翠の身体を抱き上げていた。内心の動揺をかくして、俺はわざと
ゆっくり窓を閉め、カーテンを引いて二、三歩加奈子のほうに寄った。
加奈子はとぴのき、脊中をピッタリと入り口の謳にはりつけるようにして、引きつった眼で
俺を見つめた。そして、身をよぢるようにして言った。
「鬼……!」
俺と加奈子との間に、分厚いい氷の壁が、どこからともなくズシンとおりてきたのは、
その瞬間であった。
「冷めたくなた赤ン坊を、直接この肌であたためながら、私は、三日三晩眠らなかったの。
翠は、奇蹟的に助かったんだわ」
サトミを救い出した時の、あの恐怖に満ちた夜の冷たさが、俺の感覚にまざまざとよみがえってきた。
「私はそれきり、つとめをやめてしまった。久留鳥がプロレタリア文学と訣別して、エロ小説を
書き始めたのは、そのときからのことよ」
美歌は俯いて、ただじっとうなだれているのみであった。
「久留島が何処で浮気しようと、私はね、もう二度とあの男の子供は産むまいと思ってきたの。
こんな夫婦になってしまったけれど、17年と言う時間は、決して短くはないわ。尊敬したとか
好きだとか、そんな簡単に言えるものではないでしょう?」
「もうしわけありません・・・」
「ただね、これだけは判って頂戴。あの頃はともかく、私は、死んだ久留鳥を憎んでなんか
いませんよ」
美歌が、何か言いかけたときであった。まったく、思いがけないことが起っだ
激しい音をたてて、突然、襖が開いた。そこに、蒼白な顔をした翠が立っていた。
美歌が、息をのんだ。
「翠・・・!」
押し殺した声で、加奈子が叫んだ。
「何をしていたの、そんなところで・・・!」
翠は、凝然と立ちつくしたままであった。いつからそこにいたのか、どこから話を聞いて
いたのか、わからなかった。数秒が、おそろしく長い時間に思えた。やがて、翠は何かを
呪うように言った。
「うんでやる・・・、誰よりも不幸な子供を産んでやる・・・!」
眼の中に青い炎が燃えていた。それは忘れもしない、翠が病院のベッドで見せた、あのゴーストの色であった。
夕子が来ていたことを思えば、翠が家に戻っていたとしても、不思議ではない。この二人の
間にも、きっと小さな変化があったのだろう。だが事件は、終焉を告げるどころか、
翠が聞いてしまったことによって、あらためて、第二幕をあける結果となってしまったのである。
俺は、テーブルの上にガックリと顔を伏せた。
「失礼いたします」
美歌がそう言って、音もなく立ち上った。そのあとの加奈子と翠の会話を、俺はもう聞いている
気力がなかった。美歌を追うようにして、俺はこの家を出た。
外は、まだ明るかった。ようやく暮れなづんだ空に、また、自い月がのぼっていた。ゆうべの
六郷の河原ほど大規模なものではないが、そこここに、ゴーストたちの集りが見られるように
なっていた。近くに子供の公園があって、そこにも、早くもゴーストの輪が出来かけている。
俺はベンチに腰をおろして、彼らのうごめくさまを、ぼんやりと見まもっていた。
俺は、勝ったのである。まさに完璧な勝利だった。だが、勝利感はすこしも涌いてこない。
いったい何故なのか、自分でも不思議なくらいだった。
そうだ・・・、と俺はまるで霞がかがたような感覚のなかで思った。サトミの手がかりが、
相変らず何ひとつ掴めていないのである。あるいは、サトミはどこか別の次元で起った
事件のなかから、ちぎれ霊のように、俺たちのゴーストタウンに迷いこんで来だのでは
ないだろうか…。ただ、ひとつだけ、もしやというかすかな望みが残っていた。それは阿佐ケ谷駅の
若いゴースターと会うことであった。“祭り”の前夜に、あのおとなしい若者は、どうして
サトミを襲おうとしたのか、その理由を知れば、また新らしい視野がひらけるのかも知れない。
シャバでは、チロチロと送り火が焚かれはじめていた。
ゴーストタウンは、まもな沈みはじめるであろう。物質と非物質とを包含する、無限の
宇宙の運行にのって、一年たたなければ、再びこのリズムが合うことはないのだ。