第 五 章  精霊流しの夜に (5)




今ころは、六郷の河原でも“祭り”は盛大に行われている筈である。いわゆる、“精霊流し”の

夜であった。

 俺は、あちこちにゴーストの集団を見つけては、輪の中に入ってサトミの名を呼んだ。

だが、いくら叫びまわってみても、結局、何の反応を得ることも出来なかったのである。

 ゴーストたちは、それぞれがまったく無関係に、残り少ない時間を、煩悩の焔のなかで

狂いまわっていた。所詮、俺もそのなかの一人にすぎないのであろうか…。

 はっと気がついたとき、時計は十一時半をさしていた。俺は、彼らの狂宴に背を向けて

走った。夢中で阿佐ケ谷駅の改札口を抜け、階段を馳けのぼると、ホームに出た。

「待っていたんです!」

 若者は、とびつくように言った。

「私をか?」

「もちろんです。この三日間ずっと…、もう来ないかと思っていました」

 俺は、ちょっと意外だった。あんなことがあれば、ふつうならむしろ俺を避けようと

するのではないだろうか。

 「どんなことだね」

 俺は態勢を立てなおして言った。

 「こんなところに三日間も…、じつは私にも、君にはどうしても聞いておかなければ

ならないことがある」

「わかっています…」

 若者はうつむいたが、すぐに顔を上げた。

「どうか教えて下さい。あの…、あそこにいた女の人は、だ、誰なんですか!」

「誰って…?」

 サトミが誰なのか、それは俺自身、答えるすべがないのだった。俺は、思いきって言った。

「あれは。。。、私の妻だ」

「あなたの。。。?」

 若者は、俺をすかした。良い年をして、俺は真っ赤になった。

 「そうだ! し、しかし、君は何故、あんな真似をしたんだ?」

 「わかりません。自分でも、はっきりしていないんです」

「悪いことをしたとは、思ってないのか!」

 「思いませんね」

 若者は、肩をそびやかすようにして言った。

 「何かが糸を引いたんです。たしかに、引きずられていたような感じでした。行って

みると。僕なんか会ったこともないキレイな女の人がいて、あとはもう、夢中で。。。」

 俺は絶句した。いったい何が、このおとなしい若者を、そんな衝動に馳りたてたので

あろうか。しばらく考えてから、俺は、最後の切り札を出すような気持で言った。

 「君は、サトミと言う名前を知っているかね?」

 若者は眼を宙にすえた。祈るように、俺は答えを待った。

 「知りませんね」

 若者は、無感動に言った。俺の全身から力が抜けた。

 「それが、あの女の名前なんだよ。。。」

 俺は深いため息と一緒に、グッタリとベンチにしゃがみこんでしまった。見上げると、

駅の丸い時計は間もなく23時57分を指そうとしていた。遠くから、鋼鉄の軋み合う音が

伝わってきた。

 若者も、茫然としていた。サトミは、果たしてこの世に実在していたことがあるのだろうか。

あの絶世の美少女は、もしかしたら、死の象徴のような月の光の精ではないのか。。。。

 轍の響きが、次第に近づいてくる。

 「さようなら、私はこの電車で戻ることにしよう」

 無理に微笑を作って、俺は若者に別れを告げた。

 「君も早くシャバに出られて、また恋人と一緒になれると良いな。。。」

 ホームで見送りながら、若いゴースターはかすかに首を振った。

 「もう、良いんです。あの人もきっと幸せにはなれないでしょうから。。。、可哀想です」

 「君の恋人の名前は、何と言ったのかね?」

「玉井鈴子と言うんですけど。。。」

 一瞬、棒を呑んだようになった俺の眼の前で、電車のドアが何の感情もなく、ピタリと閉った。

俺はお義理のつもりで聞いたのだったが、それは、玉石寿々子の本名であった。

 しびれた頭で、外に流れてゆく街の灯を見つめながら、俺はドアにもたれたまま、しばらくは

動けなかった。そのとき、女は妊娠していたと言う。若者を父として、生まれた子供の名前は

間違いなく利惠であった。おぼろな月が、電車と一緒に走っていた。俺は、事件はこの時すでに

内蔵されていたことを感じた。

 利惠もまた、生まれてこなければ良かった子供なのである。爺さんの言い方を借りれば、

生まれてもいつかは殺される因縁にあったのだろう。心中を思いとどまった瞬間、ポンと恋人の

背中を押した、現在の玉石寿々子は、ただ、その延長線上にあるに過ぎない。俺は総身に鳥肌が

立つ思いで、わが身を振り返ってみた。17年前のあの忌まわしい想い出は、現在の俺の姿と

直接結びついているのだ。二度と俺の子は産まないと言った加奈子の言葉が、さむざむと

甦ってきた。

 電車を四谷で降り、五分ほど歩いて、俺はマンションに着いた。

 501号室には、老人も赤べこも、久野久雄も、すでに集まっていた。俺が入ってゆくと、

三人とも一斉にこちらを向いた。それぞれの思惑と期待と不安が入りの混じった眼の色であった。

 俺は故意に沈痛なな表情を見せて、三人の前に、どっかりと腰をすえた。そして、大きなため息を

ついた。

 「どうだった。先生・・・?」

 と、老人が聞いた。部屋の空気が、ひどく緊張していた。俺は、巡々に相手を見まわしてから言った。

 「駄目だった・・・!」

 一同に、さっと失望の色が流れた。俺は反対に、わざと強い調子になって

 「編集長、死体を運んだ車は見つかったのかね。それと、若い男は・・・?」

 「判らん・・・」

 赤べこは、悲愴な顔をしている。

 「久野、お前を殺った犯人は、やっばり美歌だったのか?」

 「そ、それが、何とも…」

 おどおどして、久野はうつむいてしまっだ。相変らず、肩で息をしている。

 「おっさんは…?」

 老人は無言で首を振った。

 俺は、知っているのだ。全部、知っているのだ。だが、話すものか…!

 ここで真相を教えてやれば、それぞれが再び生きる権利を取り戻すことが出来るであろう。

 しかし、俺はどうなる…!

 サトミのことが完全に解決しない限り、俺は絶対にしやべるつもりはなかった。空気は

次第に険悪になってきた。絶望が、あわや怒りに変るうとしている。

 「聞いてくれ!」

 爆発寸前の気持を押さえこむように、俺は機先を制しだ

 「私は、真剣にやった。しかし、どうしても手がかりが掴めないのだ。自分でも不思議

なのだが、本当にどうしようもない・・・」 

 それは、たしかにその通リなのであった。サトミに関する限り、手がかりは遂に藁ー本

つかむことが出来なかったのである。

 「かくしているんじやあるまいな?」

 赤べこが、薄気味の悪い眼で睨んだ。

 「いや、そんなことはないよ。私だってシャバに出たい。この気持ちに嘘があるとでも

言うのかね」

 赤べこは、黙ってしまった。ゴーストにとって、シャバに出たいという言葉は、すべてに優先する

絶対的な願望である。まさか、サトミのために俺がその権利を保留しているとは、流石の

老人でさえ気づかないようであっだ

 「まあ、仕方あるまい」

 老人は、あきらめ顔になって言った。

 「先生がシャバに出れば、みんな同じように出られるわけだ。抜け駆けをされる心配はない。

とにかく先生には、一日も早く解決してもらわねばならん」

 俺は、真面目にうなづいてみせた。事件がひとつの流れの上にある以上、こうなったら

彼らには手も足も出ないのである。

 ざまをみろ・・・!

 心のなかで、俺はサトミと一緒でな
ければ、いっそお前らを無理心中の道づれにしてやる、

と呪いとも悦びともつかない声を上げていた。

 「だがよ、ここは事件の中心点と言った筈だぜ」

 まだ納得しかねる様子で、赤べこが皮肉まじりに言った。

 「見ろ、とうとう何も起りやしなかっじやないか・・・!」

 久野までが本性をあらわして、しっかりと赤べこについたような顔をしている。最後まで

節操な男だ。

 そのとき、ドアの外に瀬川が帰ってきたらしい物音が聞えた。どうせまた、一人ではあるまい。

 しまった…!

 俺は唇を噛んだ。

 今日の午後、まがりなりにも犯人が玉石寿々子であることを指摘したのは、ほかならぬ

瀬川和彦である。三人の前で、そのことをー言でも洩らされたら、万事休すだ。俺の全身が

冷たくなった。

 ガチャガチャとドアが開くと、もつれあっている男と女の影が入ってきた。案の定、瀬川は

一人ではなかった。

 「さあさあ、たどりつきましたよ。ずいぶん骨を折らせてくれたね。だけどもう逃がしませんよ」

 女を横抱きにしたまま、瀬川がスイッチを入れると部屋の中が急に明かるくなった。女は、

美歌であった。

 そうだ、瀬川は今日…!

 俺はもう一度、全身が凍リついたようになった。いま、ここ
で二人の話をつき合わされたら、

事件は、いやでもその全貌をさらけ出すのだ。絶対絶命
のピンチである。俺は必死で対策をさがした。

 三人のゴースターも、眼を皿のようにして、瀬川と美歌を見まもっている。

 「この間は、うまく逃げられちゃったけど、今夜は僕ちゃんの勝ちだよ。へっへっ…」

 ベッドの上に、瀬川は、ドサリと美歌を置いた。美歌はそのまま動こうとしない。淡いピンクの

絹のワンピースが太腿まで捲くれて、脚が反りかえっている。泣きじゃくったあとのように、

背中が波をうっていた。酔っているのだ…、それも、ただの酔いかたではなかった。

 俺は、ツキが自分に味方したことを知った。

 しめたぞ…!

 昼間、阿佐ケ谷の家でも、俺はかすかにアルコールの匂いを感じた。あれほど酒の強か

った女が、まるで正体もなく、ベロンベロンに酔っぱらっている。いや、酔わされている

のだった。俺の胸に、乾いた笑いがこみ上げてきた。

 勝ったのは、僕ちゃんなんかではない…。久留島満だ!

 ワンピースを脱がそうとして、瀬川は努力していた。俺はそれを手伝ってやりたいような

気持ちだった。ようやく下着だけになると、瀬川はハサミを持ってきて、美歌のブラジャーから

パンティまで、ザクザクと無残に切り裂いてしまった。

 「私を試してみて・・・」

 と言った肉体があらわになった。俺は美歌の裸体を見るのは、これが初めてである。

 冷え切った心のどこかで、
俺はある種の感傷とたたがていた。やはり、俺とは縁のない

女だったのであろう。

 バネ仕掛けの人形のように、頼川がとびかがていった。美歌は、異様なうめき声を上げた。

筋肉がグニャグニャになっている。必死に脚を閉じようとするのだったが、拒絶しようにも身体が

言うことを聞かないのだ。

 四人のゴースターが、じっとそれを見ていた。久野が図々しく身を乗り出し、老人は、黙って

顎を撫でていた。赤べこは眼をパチパチさせて、ときどき天井を見上げたりしている。こいつは

他人のヤルところなど、ー度も見たことなんかないんだろうな。

 思いのほか豊かな乳房を、瀬川がわし掴みにしていた。首を左右に振って、美歌は懸命に

脚を伸ばそうとする。それが精ー杯の抵抗であった。歯を喰いしばり、大声を上げないのは

さすがである。忌まわしい俺の過去を、加奈子から知らされたとき、美歌をささえていた何かが、

崩壊してしまったのであろう。さめはてた気持で、俺は美歌に弔辞をおくった。

 ふと、まったく別のことがうかんだ。

 いったい、ここは何処なのだろう。俺はいま、何を見つめているのだ…?

 ゴーストタウンがシャバと複合した朝、俺は棲み家の扉を開けた。そこに見た光景は、

遠くの森が銀座のビル街であり、ひばの本は交通標識と一致していた。そして俺の棲み家は、

この501号室の高さと同じだったのである。

ここで美歌が瀬川からこんな眼にあわされているということは、俺の棲み家で何が起こっているのか・・・。

 はじかれたように、俺は立ち上った。豪華なベッドが、堅い一枚板の寝台に見えた。

 「おい、久留島…、何処に行くんだ!」

 赤べこの声をうしろに、俺は501号室をとび出し、ころがるように階段をおりて、

マンションの外に出た。ひばの木の下を馳け抜け、夢中で丘の坂道をのぼった。ふりむくと、

シャバの送り火が、淫々として闇を焦がしいた。熱もなく、明るさもなく、チロチロと

燃えさかりながら、無数の火がゆっくりと夜空を遠のいて行く。“祭り”を終って

ゴーストタウンが沈みつつあるのだった。身も心も凍りつくような、精霊流しの夜であった。

 俺は、棲み家の扉を蹴とばすようにして、なかに入った。

 寝台の上に、サトミが臥していた。サトミは眠っているようであった。俺は注意ぶかく

近寄って、その顔をのぞきこんだ。眼を閉じ、寝息さえたてていない。能面のような、あまりにも

美くしい寝顔だった。さわると、そこだけ溶けてしまいそうな頬をしている。

 視線をはなして 俺は、ぐるりと棲み家のなかを見まわしてみた。何も変ったところは

ないようであったが、そのとき、俺は床に白鳥の羽のような、衣裳の切れはしが落ちて

いるのを見つけた。

 しばらく、俺は呼吸することが出来なかった。そっとサトミの足もとにまわり、思いきって、

ぱっと白い衣裳を剥いだ。なめらかな雪の肌の奥に、泥水を叩きつけたような汚れた痕跡が、

ありありと残っていた。眼のうらで激しい火花が散り、あらゆるものが粉砕され、氷のかけらの

ようになって飛び散っていった。

 「あいつだ…!」

 俺が501号室にいる間に、若者は、見えない糸に引かれるようにして、再びやってきたのだ。

怒りも恨みも忘れて、俺はただ恐怖にふるえた。

 気がつくと、いつの間にかサトミが眼を開いて、俺を見ていた。ひとかけらの感情もない、

美くしいだけの能面のような顔であった。

 ウォォーンと、どこからともなく戻ってきた、ゴーストタウン特有のうなり声が聞えた。

 “祭り”は、終ったのである…。






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