終 章 ゴーストの丘の麗で (1)
「やっぱり、そうか・・・」
すべてを聞き終わった後、老人は膝小僧を抱えたまま言った。
九月に入って、老人の事故があってから、ちょうど一年目にあたる日であった。
あばら家で、老人はいつものように、腰の下までありそうな毛糸のチョッキを着ていた。
あったもう少し喜ぶと思ったのだが、老人は、案外落ち着いている。背を丸め、あごを膝の上に乗せて、
じっと眼をつぶっていた。
「実を言うと、わしも、犯人が玉石寿々子だということには、気がついていたよ」
「ほう、何故だね?
「あの駐車場だ・・・」
俺は、隙間だらけの老人のあばら家を見た。ガランとして、そういえば何となく駐車場の感じだ。
あれは、現代の馬小屋のようなものだな。
「わしも、うかつだった。あのあたりは何時もうろついていたから、まさかと思っていたが、
考えてみると、あの駐車場には、すこし前までカバーをかけた車が一台とまっていたんだ。
“祭り"のとき、わしらが三人で話し合った場所にな」
「その車だ…!」
俺は、力をこめて言った。
「おっさんをひき殺した奴は…、それが玉石寿々子の車なんだよ!」
「まあ、そうかもしれん…」
何か別のことでも考えている様子で、老人は気のない返事をした。
「あれだけの犯罪を実行するためには、車がどうしても必要なんだ。それで玉石寿々子は、
ひそかに車を買った…。たしかに免許証は持っていたがね、長い間ペーパードライバー
だった寿々子は、おっさんの言うとうり、運転技術が未熟だったんだ」
「おそらく、そうだろうよ」
「ひき逃げどいうと、車は遠くに逃げてしまったと考えがちだが、そこが盲点なんだ」
と、俺は勢いこんでつづけた。
「おっさんを引っかけたあと、玉石寿々子は、目撃者がなかったのを幸い、すぐ眼と鼻の先に
ある自分の駐車場にもぐりこんで、車にカバーをかけて知らん顔をしていたんだろう。
運転の練習でもしていたんだろうが、車に傷がついたわけじやないから、結局、おっさんは
ひかれ損になってしまったわけだ」
「まったく、馬鹿な話よ…」
「すこし運転に釧れると、寿々子はその車を使って私を殺し、編集長をモーテルに運び、
美歌に化けて六郷の河原に行ったたくさんのバッテリーを積むのも血のついた服を
着がえるのも、自分の車がなければ、とても出来ないことさ」
「そうだな、それに違いあるまいな」
老人の反応が期待したより鈍いので、俺はイライラしてきた。人がせっかくこれまでの
いきさつを何もかも話してやっていると言うのに、ネクラな爺ぃだ。
「嬉しくはないのかね? それに犯人を知っているなんて、おっさんはどうして玉石寿々子が
犯人だとわかったんだ? えっ」
老人は、うす眼を開けた。
「因縁だよ…。わしは、シャバにいた時から、あの女を知っていた…」
「何だって…?」
「テレビでときどき顔を見るくらいでは、わからなかったのだがな、引越しのとき、
あの女の素顔を見て、はじめて気づいた。あれは…」
「そうだ!」
と、俺は思わず腰を浮かした。玉石寿々子こそ、七年前に阿佐ケ谷の駅で起った、奇妙な
飛び込み事件の片われなのである。そして、その時23時57分の電車を運転していたのが、
この老人であった。
「電車には、その前から停車のためのプレーキがかかっていたから、停まるのは簡単だった。急いで
ホームに隆りると、若い女が駅員に抱きとめられて、泣き叫んでいた。わしを見ると半狂乱に
なって、この人殺し、いつかきっと仇をとってやる、お前をひき殺してやるとわめき散らした。
一種の錯乱状態だったのだろうがね、わしにとっては、身の毛がよだつほどのショックだった…」
三十年無事故の初老の運転手には、たしかにその通りであったろう。だが俺には、それも
玉石寿々子が生れながらに持っている、演技過剰のあらわれだったように思えた。
「“祭り"の日に、マンションを出て行く玉石寿々子を見て、あの時の女だと気がついたとき、
わしは危うく卒倒するところだっよ。それで、しばらく駐車場に行って気持を鎮めてきたのだ」
事件は、この老人にとっても、やはり中心に向かって動いていたのだった。
「人に殺ろされるほど、わしはシャバで悪いことなんかしてはおらん。死んだのは、あくまでも
交通事故だ。だがな、わしと玉石寿々子との間には、ずっと前から、どうしようもない、
そういう因縁があったのだろうよ」
運命と呼ぶには、あまりにも不可思議な現象である。しかも、それは眼に見えないある種の必然に
よって、はっきりと裏づけられているように思えるのだった。俺は、自分の身にも、同じようなことが
起っているのではないか、という不安におびえた。
「でも、良かったじやないか…!」
俺は、強いて明るい表情を作って言った。
「おっさんは、それでどうやらすべてを解決したんだ。すぐにでも、シャバに戻れる!」
「そうかな…?」
老人は半眼のまま、剌すような視線で俺を見つめた。
「わしは、先生の小説のおかけで殺されたと言った筈だが?1
「うむ…」
「そのことは、今だって変っているわけじゃない。さっきからわしが考えていたのは、決して
ただの因縁ばなしではないよ」
何となく気おされたかたちで、俺は老人の次の言葉を待った。
「みんなが501号室に集ったとき、先生が何も言わなかった気持は、わからぬでもない。
だがよ、なんで今ごろになって、真相を話そうという考えに変ったのだね?」
「それが、じつは…」
かくしても、かくしきれるものではないと、俺は観念してしまった。
「おっさんには、言いにくいことだが…、私は、宿無しが恐ろしくなってきた。出来る
ことなら、サトミと離れたいんだ…!」
「無理だろうよ」
老人は、冷たく突きはなすように言った。
「わしに真相を教えて、一緒にシャバに脱け出そうと考えたのだな。しかしもう遅い」
「何故だ!」
俺も必死だった。あの夜から、サトミは一切の感情というものを、失そしまったのである。
そしてピタリと俺に寄リそっていた。声もなく、心もなく、それはまさに一匹の妖怪であった。
「第ー、サトミはこの事件に、まったく関係がない。私もずいぶん手をつくしたのだが、
つながりとなりそうなものは、針ー本落ちてないんだ。宿無しは、ゴーストタウンに残して
行っても仕方があるまい?」
もう、恥も外聞もなかった。あれほど自分に誓った愛情が、生きることへの執着の前には、
燃えつきた線香の煙りのように霖消してしまった。老人は、躍起になっている俺の姿を、
蔑すむように見ていた。そして、おもむろに言った。
「サトミはこの事件に、深いかかわりを持っているよ。それに先生だって、まだ全部を
解決したわけじゃない」
「いや、私はもう真犯人を…」
「うそだ…!」
老人が一喝した。負けずに、俺も言い返えしてやった。
「では、玉石寿々子は真犯人ではないと言うのか!」
床の代わりに敷きつめてある落葉が、カサカサと鳴った。
「いちおうは、玉石寿々子だろうさ。だがな、あれはむしろ被害者なんだ。本当の犯人は
別にいる」
「誰だね、それは…?」
俺は冷笑を浮かべた。老人は、相変らず膝小僧に顎を乗せたままで言った。
「久留島加奈子・・・、と言いたいところだが、実はその亭主、先生、あんただ・・・!」
来たな・・・、どうせ、この老人の考えそうなことだ。俺は、わざと気抜けしたように言った。
「因縁はなしならもうごめんだ。あんなもの、何の役にも立たん」
「先生、見そこなってくれちや困るよ」
老人は、いっそう眼を細めた。
「先生も知っているだろう? わしはな、よく自分の事故現場をうろついていた。
だからマンションの外側は、飽きるほど見て知っているんだ」
「外側からいくら眺めだて、何かわかるものか」
「そうでもないよ…」
老人は、薄気味悪く笑った。
「たとえば 501号室と301号室とは、四階をはさんで、ちょうど上下の関係にある。
内側からだと離れているように感じられるが、外側から見れば、ほんの近くだ。違うかね?」
「それがどうした」
俺か険悪な顔になったのを見て、老人は、はぐらかすように言った。
「事故のあった日、先生は、夕方の六時すぎに玉石寿々子の部屋に行ったと言ったが、
そのとき何故、奥の間に入ったのだね?」
「いちいち、理由なんかない!」
「そうかな? わしはまた、ガス栓を開きに行ったのではないかと思ったんだが…」
俺は笑った。ゲラゲラと笑ってやった。
「おっさん、冗談じやない。寿々子が仕事場にきたのは、夜の九時だよ。その間、自分の
部屋にいて、ガスの匂いは全然なかっと言っているんだ」
「わしは、ガスを出したとは言っておらんよ。ガスなんか、はじめから洩れちやいなかったのさ」
「ではどうして、ガス栓を開けたなんかと・・・」
「つまり、ほんのチョッピリ、ガスが出てこない程度に、ゆるめたんだろ?」
老人の細い眼が、一点を見つめたまま動かなかった。
「部屋の中がガスで一杯になっていれば、あわててガス栓を締めようとする。気が動転
していただろうから、さあ、半分と言ってもどのくらいだったのか、もうー度もとに戻して
やり直すことは出来ないだろう。そこがつけめさ・・・」
「それでは、あれだけのガスはいったい何処から入ってきたんだ!」
「換気口だよ…」
老人は、遂に言った。
「まるで幽霊のようにな、ときには逆流し、ときには風に乗ってフワフワと舞いおりてきたんだ。
換気口は眼の上の高さにあるから、わかりっこないわさ」
「ふん・・・、よく気がついたな」
「だから、外側を良く見なければ駄目だと言ったんだ。ちょっくら工夫すれば、五階から三階の
換気口にガス管を差し込むのなんか雑作もあるまい」
「その通りだ、教えてやろう」
俺はそう言って、遂にひらきなおるよりほかになかった。
「私もこれだけは、誰にも知られずシャバに出たいと思っていたんだ。何しろ完全犯罪だったからな。
サトミのことさえなければ、絶対に成功していた筈だ!」
それには答えず、老人は再び眼をつぶった。」
「加奈子からこのアイデアを聞かされた時、私は、もしこれが本当になったら どうだろうと
思った。アイデアとして使うだけなら、べつに真実性もない。これまでの小説と同じじやないか。
本当にあの子供が死んだら、寿々子はどう動くか・・・」
「つまりそれがお前さんの言っていた実験小説というわけだな?」
「いくらハンデだと言っても、寿々子がまさか白分の子供を殺すはずもあるまい。これは、
事故に見せかけて、こっちで殺ってしまうのが一番早いと…」
「先生、あんたは悪人だ!」
老人は、吐き出すように言った。
「さっき聞かされたばかりの、17年前の発想とすこしも変っておらん」
「そうかも知れないな」
俺は、あえて否定しようとも思わなかった。いくら書くことに行きづまっていたとしても、
やはり、それが俺の本質だったのであろうか…。
「方法を思いつくと、私はもう、矢も楯もたまらなくなってしまった。事故の一週間くらい前、
俺は、小さな鉄の輪を紐の先端に結んで、輪のなかに、もう一本の紐を通した。
それを錘りの代りにして換気孔から垂らし、早速、玉石寿々子の部屋に行ってみた。話の合い間をみて、
煙草を買ってきてくれるように頼み、寿々子が出て行ったあと、奥に入って、持ってきた針金で
紐を引っかけると、鉄の輪は、箇単に換気孔の中に入ってきたよ。私は、網格子のところに、
針金で軽くとりつけておいた」
話をしているうちに、何故か、身体がしびれてくるような気がした。一種の快感と言っても良かった。
「装置は完成した。私はチャンスを狙っていたのだ。マンションの壁は白いレ五階と三階ぶ換気孔が、
都合三本の細い紐で連結されていると気がついた者は誰もいなかったろうよ。たとえ誰かが気づいたとしても、
それだけではまったく何のことか意味がないのだ」
「恐ろしいことだな・・・」
「あの日、寿々子の電話を聞いて、私は直感的に、今夜だ、今夜しかないと思った。利惠が
独りでいるときよりも、はるかに効果的だし、責任の所在は反対にぼやけてしまう。
よし、いよいよ実行する時がきた…!」
やれ! と何かがささやいたのである。いわば、霊感のようなものであった。
電話のあと、俺は愛用のモンブランをおくと、買っておいたゴムのガス管をしっかりと
紐にくくりつけた。それから全体をすこしゆるめて、反対側の紐を引くと、ガス管は、長い蛇が
這い出すように、スルスルとおりて行った。
それでもかなり慎重にやったので、時間は三十分以上かかった。俺はマンションを出て、
外壁を見上げた。あたりはとっぷりと暮れて、ガス管はもうほとんど見えないと言って良かった。
煙草を買い、ついでにケーキと週刊誌を買って、マンションに戻った。
寿々子がコーヒーをいれている間に、俺は奥の部屋に入り、のび上って換気孔を見ると、
うまく鉄の輪にひっかかって、ガス管がこちらにロを向けていた。すべて考えていたとうりの
情況である。
洩れない程度に、ほんのすこしガス栓をずらして、俺はそうそうに引き返えした。利恵が
遊んでいたが、人形に夢中で、ー度も振り向かなかった。
501号の仕事場に戻ると、同じ位置にあるこちらのガス栓にゴム管をとりつけ、露出
している部分を巧みにカモフラージュして、、寿々子を待った。ブザーが鳴ったのは、それから
三時間も過ぎてからのことである。
「寿々子とー緒に、風呂に入る前に、私はガス栓を開いた。ガスは音もなく、301号室に
流れこんでいると思うと、さすがに、胸が締めつけられるような思いだった。
気持をおちつけるため、というより、ひそかな祝盃のつもりで、私はビールの栓を抜いた。あとは、
寿々子が部屋を出て行ってから、紐とガス管を大急ぎで引き上げてしまえば良かったんだよ。鉄の輪は、
紐を強く引っぱれば、針金が伸びてすぐ外れてしまう」
いつの間にか、俺は自分の言葉に酔っていた。
「五階からガスが送られていたとは、もちろん、誰も気がつかなかったさ。事件は結局娘たちの過失と
いうことでおさまってしまった。私は完全犯罪をなし遂げたんだよ! 実験小説は、いよいよ開始された。
予期していたとうり、王石寿々子は、たちまちスターになった。しかし・・・」
俺は、言葉をとめた。そして夢から醒めたような気持で、ぼんやりと老人を見っめた。
「しかし・・・、犯人である筈の私が、どうして殺されてしまったのだろうか・・・?」
「先生が、覚え書きとやらを書いたからだろ?」
老人は、あきれ返ったように言った。さぞかし、俺が間抜けな男に見えたことであろう。
「いや、それは違う! 覚え書きは前から出来上っていた。事件のほうが追っかけてきたんだ!」
本当は犯人ではない筈の玉石寿々子が、何故、その後次々と殺人をかさね、事件が覚え書きの
とうりに展開していったのか・・・。加奈子が何を吹きこんだとしても、実際に犯人でなければ、
俺や赤べこや、久野久雄まで殺してしまう必然性は、まったくないのだ。書かれては困ると
いうだけでは、あまりにも動機が弱いのである。