終   章  ゴーストの丘の麗で (2)




 何か、大きなものが欠落している。それは、俺が事件のはじめから感じていた、不可解な

謎であった。

 「先生、わしの意見でよかったら、聞いてみるかね?」

 言葉とは反対に、老人は、確ありげだった。

 「玉石寿々子は、無理矢理人殺しをさせられてしまったんだ。犯人だが、同時に被害者なんじゃ!」

 俺にはその言葉の意味がよくのみこめなかった。黙っていると゛老人はまたちょっと意外なことを

言った。

 「問題は、正子の電話だ」

 「電話?」

 「そうだよ。たしか九時半ころということじやったかな、正子が河井みゆきに電話をかけてきた

というのは…」

 ああ、そのことだったのか・・・、“祭り"の日に、俺もはじめて知って驚いたことだ。あの電話が、

何かの鍵になるのだろうか…?

 「正子は、ガスの匂いに気がついていた。九時半と言えば、寿々子が部屋を出て、まだいくらも

時間がたっていない。おかしいとは思わないかね?」

 そう言われてみると、俺はその時間には、まだガス栓を開けていなかったような気もする。

 「それによ。ガスの匂いに気づけば、ふつうなら、すぐに調らべてみるのが常識ではないかな?」

 「まぁ、そうだろうな」

 「瀬川は、電話の直後に倒れたか、ガス栓が見つからなかったと考えたようだが、これも

不自然だ。わしは先生の話を聞いた時、すぐ、こいつはおかしいと思った」

 いったい何を言おうとするのか、俺は、奇妙な胸さわぎを感じた。

 「おそらく、正子はそこで電話をきりあげ、すぐにガス栓を調らべた筈だ。窓を明けて

空気も入れかえたとみるのが自然だろうさ。だが、鼻が慣れてしまったのと、まさか換気孔から、

その後もガスが降りつづいていたとは思わなかったのだろう。それでとうとう…」

 「おっさん、ではなぜ、寿々子はガス栓が半分開いていたと言ったんだ。なぜ…!」

 「そうとしか、言えなかったからさ」

 老人は、沈痛な顔をしていた。

 「あの晩、寿々子も先生と同じことをやっていたからだろうよ、きっと・・・」

 俺は、信じられなかった。ポカンと口をあけて、老人を見ていた。

 「寿々子は部屋を出る時、ガス栓を半分だけ開けた。そのときすこしずれていたので、

おかしいな、
とは思ったろうがね.十二時すぎになって戻ってみると、案の定、部屋の中は

ガスで一杯になっていたんだ。予想していたことだから、鷲かなかったろうが、急いで

ガス栓を締めようとしたら、ちゃんと元に戻っていたのには、まるで狐につままれたような

気持だったろうよ。だが現実に、ガスは充満している。突瑳の場合で、寿々子にも判断が

つきかねたんじゃないか? いくら何でも、私が開けておいた筈のガス栓が、しまって

いましたとは言えんじゃろうが…」

 「で、では、やっぱり寿々子が真犯人…!」

 「そうはゆかんよ。寿々子は未遂だ…。ちゃんと正子が気づいて、ガス栓を締めている

んだからな。しかし、その意志と行為があったことだけは、たしかだろう。そのために、

寿々子は自分で自分を犯人と思いこむよりほかに、どうしようもなくなってしまった…。

先生、これはあくまで想像だよ」

 「いや、そうとしか考えられない…」

 「そこに追いうちをかけるように、覚え書きの話がとびこんできた。久留鳥満は真相を

知っている。それを小説に書こうとしているとね。寿々子が追いつめられていったのも、

無理はあるまい。七年前、電車に飛び込もうとしたときと、同じ心境だったろうよ」

 「加奈子だ…!」

 と、俺はうめいた。

 「加奈子が、自分の手を汚さずに、私を殺そうとしたのだ」

 「違うな」

 老人は、また俺を一蹴した。

 「奥さんはな、むしろ先生をかばったのだよ」

 「馬鹿言っちゃ困る!」

 「先生、自分のことを思い出すが良い。 17年前の事件をな…」

 俺は、思わずむせかえりそうになった。

 「先生が生きている間、奥さんは恐れていた。先生の血を引いた子供さえ産まなかった

ほどだ。あのアイデアだって、先生を牽制し、警告する意味で言ったのだろう。それを

あんたは、別の意味にとったようだが…」

 「‥‥‥‥‥」

 「事故が起きた時、奥さんは、すぐあんたの仕わざだと感じた。とうとう来るべきものが

来たとね。それで、徹底的にあの覚え書きを利用することにしたんだ。先生が殺された

ことで、奥さんは、正直なところホッとしたと思うよ」

 「そうかなぁ…」

 加奈子が最後まで、自分のアイデアだと言わなかったのは、そのためであろう。俺は

衰しくなってしまった。殺されて、ホッと安心される亭主の身にもなってみろ!

 「先生の本性を、世闇様の眼からかくしてやることが、奥さんにとっては、ギリギリの

ところだったんじゃないか。そのために、美歌や久野久雄を使って寿々子を追い詰め、

とうとう本当の犯人にしてしまった。心の奥に、寿々子に対する嫉妬がなかったとは言えない

だろうがね」

 「なかったどころじゃない。結局、すべて加奈子自身のためじゃないか!」

 なるほど、と老人は笑った。

 「完全犯罪をなしとげたのは、先生ではなく、実は奥さんだったのかも知れんな。しかし、

そうなると被害者は玉石寿々子だ。あとの連中は踊らされただけさ。わしなんか、別の因縁で

巻きこまれて、えらいめにあった」

 「そうさ、だから加奈子が・・・」

 「よしな、先生・・・」

 老人は、容赦なく言った。

 「奥さんにそれをやらせたのは、やっぱりあんただ!」

 「何だと・・・?」

 「みんな狂っているんだよ! 母親も娘も、弟子も、女優も歌手もホステスも、プロデューサーもな、

みんな狂っている。先生のまわりには、そういう奴らばっかりが集ってくるんだ! それがあんたの因縁さ」

 「私の知ったことでない!」

 「17年前の久留島満と、7年まえの玉石寿々子と、時がたって二人があのマンションで出合った。

そこからすべてが出発したのさ。元凶は、あんただ」

 俺は、身も灼ける思いだった。あの夜、俺と寿々子は、たがいに気がつかぬまま、同じ

血の快よいうづきのなかで燃え上っていたのだ。ベッドの直下、わずか10メートルと離

れていないところで、正子と利恵が死んでいた。それはまさしく冷血な男と女の、狂気の

宴であった。

 老人は、それきり黙ってしまった。さすがに疲れた様子で、膝小僧を抱え、眼を閉じて

丸くなっている。

俺は、漠然とある幻影のようなものを凝視していた。いったい、どんな娘だったんだろう。

俺は事故現場にも行かなかったし、その後の始末も、一切シャットアウトしていた。正子

の顔を知らないのである。ただ、みゆきが瀬川に言った一言だけが耳に残っていた。

 「先生、正子を知らないでしょう。とっても良い子だったのよ、うっ…」

 老人と向い合って膝小僧を抱え、俺は一点を凝視したまま動かなかった。何故、もっと

早く気がつかなかったのだろう…!

 ゴーストには、もともと自分の死んだ場所の近くに、ゆかりの地を求めて住みつくという

原則がある。丘の棲み家はマンションの五階と同じ高さだった。赤べこは“きやら”の

穴ぐら、老人のあばら家は丘の麗で、マンションの横の駐車場である。そして俺は、利恵

と正子をあのマンションの三階で殺した…。

 「おっさん!」

 吃驚して、老人が眼を開いた。

 「サトミは、どこからか迷いこんできたのではない。はじめから、ここにいたんだ!」

 そう言えば、俺がゴーストタウンに落ち込んだとき、最初に現れたのがサトミだった。

 「サトミだよ、サトミが正子だったんだ!」

 老人は、けげんそうな顔をしている。俺は落葉の床を叩いた。

 「玉井鈴子というのが、玉石寿々子の本名だろう」

 「そうだよ・・・」

 「美歌は戸倉美子で、アルバイトのタ子は、百合子だった。河井みゆきにも、もちろん

親がつけてくれたちやんとした名前があると思う」

 「あたり前だ、しやあしやあと本名を名乗っているのは、おたくの久留島加奈子さん

くらいなものだな」

 「正子だって、親の反対を押し切って、日東テレビのオーディションを受けに来るような娘だ。

自分で芸名くらい考えていたっておかしくはなかろう・・・?」

 「そうか・・・、先生!」

 これまで陰鬱だった老人の眼が、みるみる輝きを増した。

 「河井みゆきは、歌は正子のほうが上手かったと、自分で言っていたことがある。私はみゆきが

歌っているところをテレビで見たがね、あの衣装は、たしかにサトミに着せたら似合うだろうと

思った。17歳のブルースと言う曲だが・・・」

 「そんなことは、どうだって良い!」

 と、老人は叫んだ。

 「はじめて東京に出て来た日に、二人の人間が同時に同じ方法で、正子を殺そうとした。

事故の責任をなすりつけられ、死体は解剖されたあげく、葬式もなしに親元に引きとられて

しまった。しかも、一緒にオーディションを受けた友達は、河井みゆきとしてはなばなしく

デビューしている。これは、口惜しかったろうな。宿無しになるのも、無理はないわさ」

「可衰想なことをした…」

 俺は、ただ夢中でやったことだが、指摘されてみると、極悪非道の所業と言われても

仕方なかった。さすがに自分自身に恥じるような気持で、俺はうつむきがちに言った。

「サトミというのが、正子の芸名だつた。正子はその名前だけを支えにして、シャバヘの

執念を燃やしつづけていたのではないだろうか'¨.だからこそ、私にあれだけのことを

やれたのだろう」

 「この人非人め!」

 突然、老人が立ち上った。その瞬間、俺は空間が歪んだような気がした。ゴーストタウン全体が、

グラリと揺れたのである。とたんに、老人の姿がスッとぼやけた。

  「出来たぞ、出来た・・・!」

  両手を振り回しながら、老人が叫んだ。 

 俺は眩暈を感じて、思わず床に伏せた。それから恐る恐る顔を上げると、老人はまるで

瓶の中の操り人形のように、踊りを
踊っていた。

 「おっさん…!」

眼の前にいる筈なのに、遥か遠くのように見えた。手を伸ばして老人を捕らえようとしたが、

手ごたえは全くなかった。

 「待ってくれ、おっさん…!」

 老人が口をパクパクあけて、何か言っている。だが、俺にはもう聞えないのだ。老人は、シャバに

戻ったのである。

 気がつくと、馬小屋のようなあばら屋も、あとかたもなく消えていた。ゴーストタウンの丘の麗で、

俺は四ツん這いになって、一人で這いまわっていた。

 自分をとり戻すまでに、俺は長い時間がかかった。事件は解決したのだ。それなのに、どうして

あの老人だけがシャバに出ることが出来たのか…、俺は、呆然自失してしまった。

 ゴーストに甘さや温情はない。資格を取り戻した瞬間、彼はすべてを捨ててシャバに馳け上って

ゆくのだ。だが、俺はどうして駄目だったのだろう。まだ何か残っているのか、胸に

たとえようもない不安がこみ上げてきた。

 その時である。サトミの唄うあのゴーストタウンのメロディが聞えてきたのは…。

 俺は、わが耳を疑った。たしかにサトミの声であった。言葉を失い、感情を持たなくなってから、

一歩も棲み家を出ようとしなかったサトミが、唄っているのだ。歌声はせつせつとして、いっそう

俺の不安をかきたて、誘うように、惑わすように、丘の麗の反対側から流れてくるようであった。

 俺は、夢中で走った。そこは探い崖の下で、朽ちた枯葉と霜柱で覆われ、いつもぞ

肌を剌す冷たい妖気がただよっていた。まるで奈落の底に引きづり込まれるような気がして、

誰も近づこうとしない場所であった。

 行ってみると、ざわざわと、枯れたまま生い繁っている潅木の薮の向うに、チラリとサトミの

白い衣裳が見えた。歌声がいつも途中で消えてしまっていたのは、サトミがこうして丘の裏側に

回っていたからであろう。道とはいえないようなサトミが歩いた跡を、俺は辿った。ちょうど、

“祭り"の前夜に、俺がゴーストを突き落とした場所の真下に当たる急な崖を、サトミは身軽に

よじ登ってゆく。その中腹の辺りに、朽ち葉と霜の垣根で囲われた小さな凹みがあった。

 ようやく追いつくと、俺は、枯れ本の根っこにしがみつくようにして、身体を伸ばして

崖の凹みを覗いた。

 サトミは、わくら葉をかきわけ、何かを掘り出しているようであった。だ白い衣裳が、不思議に

汚れもしないで動いていた。

 宿無しは、人知れずこんなところに棲みついていたのだ。一日に二度、どこにともなく姿を

隠していたのは、おそらくここに戻るためだったのであろう。
サトミはここで、いったい何を

やっていたのだ・・・。

 やがて、サトミは掘り出したものをしっかりと胸にかかえて、いきなり、こちらを向いた。

危うく崖からすべり落ちそうになって、俺は必死で水の根っこを掴んだ。

 「とうとう、来たわね・・・」

 サトミが口をきいた! そればかりではなかった。美と醜が、極限で溶接されたような、

あの奇妙な能面の顔が消え、平凡だが愛らしい、もとの少女に戻っていた。

 「見てごらん、これを・・・!」

 サトミは、胸に抱えていたものを、俺のほうに向けた。くさった土の色をしてこちこちに

固まり、さわればボロボロと崩れてしまいそうな泥人形であった。眼だけが、凄さまじい

怨念の色を浮かべて、ギギロと俺を見ていた。

 「利恵だよ・・・!」

 サトミが言ったとき、突然、利惠の全身から恐ろしい冷気が発散して、俺を捕らえた。

バリバリと音を立てて、すべてが凍り付いてしまうような怨念であった。

 「利惠は、自分から奈落の底に落ちているのよ」

 くさった泥人形に頬ずりしながら、サトミは言った。

 「この子は、それを承知で私をひばの本の下に送ったんだわ!」

 サトミがひばの本の下で、俺を待ちつづけている間に、利恵は奈落に落ちたのであろう。

あの時から、サトミがピタリと外に出なくなってしまったのは、もう、ここに戻って利恵の

世話をする必要がなくなってしまったからなのである。利恵をわくら葉の下に埋めて、

サトミは、すべてをつくして俺の煩悩をかきたてようとしたのだ。17才の少女にとって、

惨胆たる執念に満ちた賭けであった。

 俺は、サトミがはじめて開花した夜、窓の外からギロギロとした異様な視線が注がれていたことを

思い出していた。あれこそ、利恵だったのだ。この崖の中腹にひそみ、わが身を奈落の底に

沈めてまで、サトミを俺に信じさせようとした、それが、この小娘であった!

 「サトミ…!」

 俺は、残っている力をふりしぼるようにして言った。

 「教えてやろう…! お前を犯したのは、この利恵の父親なんだぞ!」

 「あの人が…?」

 「そうさ、あの男は、まだ見たこともないわが娘の糸に引かれて、ここにやって来たんだ」

 あきらかに、サトミは動揺したようであった。

 「おそろしい因縁さ。お前は利恵を奈落に落とした。何も知らなかったろうが、あの男は

そうやって、お前に復讐したのさ」

 俺は冷酷に笑った。若い娘にとて、激しい衝撃であったに違いない。

 「あの人が、利恵の、お父さん…」

 遠くに瞳を走らせながら、サトミはつぶやくように言った。

 「でも、あの人は、やさしかった・・・」

 眼の中にかすかな羞恥と憧憬に似た色が宿っていた。サトミがはじめて見せた生きている

感情である。俺は、足もとから何かが崩れ去ってゆくのを感じた。

「久留島満…!」

 サトミは立ち直ると、もう一度しっかりと利恵を抱きしめて言った。

「鬼…、ざまを見ろ!」

 ふたりの姿が、ぼやけはじめた。

「宿無し奴…!」

 不意に俺の口から、思ってもいなかった言葉が出た。

「いいか、今度シャバでめぐリ合ったら、その日のうちに息の根を止めてやる。おぼえておけ!」

 しかし、ふたりの姿は、その時はもうほとんど見えなくなっていた。俺の全身から力が抜けた。

誰もいなくなったゴーストタウンの空に、魂をかきむしられるような。あのメロディだけが、

いつまでも尾を引いていた。

 いったい、どっちが先だったのであろうか…。しびれた頭のなかで、俺はぼんやりと考えていた。

あの日、寿々子からの電話のあとで、俺は霊感のように感じたのである。

 よし、今夜だ…!

 それが、事件のはじまりであった。

 突然、耳もとで翠の声が鳴った。

 「うんでやる。誰よりも不幸な子供を産んでやる…!」

 まさか、翠は今夜、あの利恵を妊ごもるのではないだろうな…。






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