SMについてどのようなイメージをお持ちですか? 鞭? 縛り? 泣き叫ぶ女性?縛って鞭打てばSM?
私は、Sが好き勝手にMを苛めて喜んでいるものだと思っていました。だから、Mは、
どのSのどんな責めにも耐えて喜ぶものなのかと思い込んでいました。
Sの中には鞭打てば誰でも奴隷になると思っている人もいて、その人から見ると私などはマゾとは
言えないかも知れません。単純に鞭打ちの快楽もありますが、奴隷になるというのはご主人さまたる人の、
絶対的支配を受けた時だと思っています。
自分がMらしいと気が付いてSMって何だろうと色々情報を集めてみるとMは誰にでも責められて、
苦痛を喜ぶものでもないのだと気が付きました。その考えを書いてみました。
先日メールをいただきました。 「ご主人さまの命令はどこまできけますか?」 そう質問されました。 ご主人さまは唯一人。それを前提に 「ご主人さまの命令は、規則より常識より重く、どんな命令でも絶対です。」 そう答えます。 マゾといっても何でも出来るわけではありません。出来ない事などたくさんあります。 まして痛がりで弱い私としたら、出来ないことも多いです。出来ないことには、幾つか種類があります。 全く出来る可能性のないこと、出来ないと予想されてもやってみれること、など。 それを見極めているのが、ご主人さまです。だからご主人さまの命令なら、出来る可能性のない 命令はないと思っています。たとえば「裸で町内を逆立ちして歩くように」と言われて「裸」になれても 「逆立ちで歩く」ことは出来ないのです。だから、この命令は下されないと思います。 ご主人さまのお楽しみの為にいる奴隷は、ご主人さまの命令をきく。それ以外の道があるとは思っていません。 |
時々、自分をMと言っているけれど、本当にマゾなのだろうかと思う事があります。
敏感肌というのは、悪く言えば痛がりで我慢がききません。痛みの度合いがマゾの
優劣でもないはずなのに、見た目に振りまわされてしまうのです。
実際は、マゾであろうとなかろうと、ご主人さまのお役に立てるのなら本望なのです。
世間でノーマルと区別されているSMの枠の中にも、好みが細分化されています。
その好みを共有できる相手に巡り会わなければ、内なるS性、M性に気がつかない人もたくさ
んいると思います。
私は運良く、ご主人さまと呼べる人に出会えて本当に幸せです。
それなのに、いつも自分を不甲斐なく思います。もっとお役に立ちたい、と。
今なんて、お掃除の時の雑巾の方が役に立っているような気がしています。
(ご主人さまは雑巾がけはしないと思いますが…)
私にとって「奴隷」とは、ご主人さまのお役に立って、お楽しみの為に使われるオモチャだと思っています。
Mには鍵付きの扉があると聞いたことがあります。Mの心を開くには鍵がいるのです。
それは鞭であったり、縄であったりの道具かもしれませんし、Sの気持ちなのかも知れません。
その鍵穴は、人によって違うのです。
その鍵穴は合う鍵でないと開きません。違うどんな鍵を当てられても、開くことのなかった扉を、
合鍵を持っている人は無造作に開けてしまうことができます。
そういう人がご主人さまと呼べる資質を持った相手だと思います。
私にとって俗にいうSMプレイは痛いこととか多いです。例えば鞭打ちなんか痛さのあまり
飛び上がってしまうこともあります。
たまに「鞭は、ご主人さまからの愛を伝えるものだから痛くない」と言う意見も聞くこともありますが、
私は痛いです。でも、痛いことでも嫌なことではないのです。
また、鞭打ちが終わった後に「よく我慢できたね」とご主人さまから、ご褒美に抱きしめてもらうのが
嬉しくて痛みを耐えて我慢しているという話も聞いたことがありますが、これも私の気持ちにはありません。
誉められるのは嬉しいですが、誉められるために鞭をいただいているのではないからです。
私が鞭をいただくのは、ご主人さまが打ちたいから。それだけなのです。そこには、
我慢も忍耐もありません。もちろん嫌な気持ちなんか全くありません。
痛いと感じる感覚と、ご主人さまの欲望を受けられて嬉しいという感情は同時に成立するのです。
自己紹介でも書きましたが、ご主人さまの欲望を私で果たしていただくことが私の悦びなのです。
耐える気持ちがないと書きましたが、あるSの人が「耐えているM」にも魅力を感じるというのを聞いて、
なるほどなぁと思いました。
実際耐えている実感がなくても、耐えられなければ、鞭打ちの最中でも逃げ出せばいいのですから、
耐えているのには違いないのかな?と考えました。
私にとって耐える、我慢するというのは嫌なことを、しぶしぶ我慢しているというイメージがあって、
ご主人さまから与えられるものに嫌なことなんてないと思う部分から耐えるという言葉を使いたくないのだと思います。
たまにはMとしてではなく、一般的にはそんなことはしないだろうと思うことを受ける時もあります。
例えば、以前に灰皿代わりに手にを落とされたことがあります。
熱い灰を手に受けた時、(灰なのでそれほど熱くありません)イッテしまいました。灰皿として役に立てた喜び、
灰を落とす玩具に選ばれた歓び、そしてこんなことをしても奴隷でいると思われている悦びに全身が震えるほどでした。
SMにおいても「信頼」が大事だと言われています。この信頼がないとMは安心して身も心も
委ねられないので、Mにしても困りますが、Sから見てもどこかで不安がっているM相手には
完全に楽しむことが出来ないのではないでしょうか?
信頼というものが、どのようにして出来たのか実はよく分からないのです。初めてご主人さまと
呼べる人に逢えた時でも、始めのうちはある程度警戒していたと思いますが、私の本当の姿を
見ぬかれていくうちに、いつしか完全な信頼を寄せるようになりました。
時々、Mだというと「どんな事が出来るのか?」と聞かれることがあります。私はつい
「ご主人さまの命令なら何でも」と答えてしまうのですが、この場合の「ご主人さま」の定義が
話している同士で違うかもしれません。
私にとってご主人さまと呼べる人は特別な人です。ただ相手が出来るだけではないのです。
例えば、俗にいうプレイの中で出来ないものもあります。露出にしても一般の人に見られて軽蔑の目を
向けられることは私には快感でも屈辱でもなく、冷静になってしまいます。
逆に見た人が興奮してくれるなら、私も良かったと思います。ご主人さまの奴隷は、他の人も
興奮させられましたと言いたくなるくらいです。
ということで、私にとって、一般の人達は関係ないのです。あくまでも、ご主人さまの存在があってのこと。
そしてご主人さまは、そんな私を完全に把握しているので、気持ちが冷めてしまう命令は出さないのです。
確かにひるんでしまう命令もあります。「出来ません」と泣きを入れてしまう時もあります。
でも、そんな時でも、ご主人さまが「やりなさい」と言えば、やるでしょうし、「じゃ、やめて・・・」
と言われれば、その命令は私のSMの範疇を超えていたということなのです。
私自身より私を分かっている存在が、ご主人さまなのです。
だから、ご主人さまの命令なら何でも聞けると言ってしまいます。たぶん、これが信頼と思っています。
信頼できて安心していられるから、ご主人さまの腕の中で快楽に狂うイヌになれるんだと思っています。
最初に信頼について書いていた時には、私にとって「信頼」とは「相手が私に危害を加えない」という意味でした。
それが、人と話していてだんだん変わってきました。
始めは相手からのリアクションが返ってくることに感じてきました。例えば「私が話すことを
聞いてくれる確信」とか「待ち合わせをした時に相手が来ると思うこと」になりました。
これは基本的な信頼であると同時に気持ちの相互交換性を含んでいます。
「愛」は私だけでも成立します。でも「信頼」は相手からの気持ちが返ってくるのを前提に
考えていることに気がつきました。つまり自分を解放できる繋がりとのパイプラインという感じです。
ご主人さまを想う気持ちは、ご主人さまからいただく気持ちとは関連がないけれど、私の信頼とは、関連があります。
私の想いは、ご主人さまへの捧げもの。信頼は繋がりだと感じました。
また信頼についてイメージが変わりました。
ある本を読みました。森 遥子さんの「涙の首飾り」 です。「シナという名の女」に収録されている短編です。
本屋で立ち読みしてしまったのですが、思わず涙が出てきて、慌てて買ってかえりました。
これは、筋を話してしまうと読むのが詰まらなくなるので、いいませんが、人を信じるということは
自分の誇りだと思いました。
相手を信頼に値すると思うのは、自分の判断であり、それに自信を持つということです。
ご主人さまを信じることというのは、私の誇りです。そしてそう思える人に巡り会えた私の幸せでもあります。
私はサッカーの試合を見ていました。それは世界のチームから代表者が出てチームを組む記念試合でした。
そこには、サッカーは見なくても名前は聞くような選手もたくさんいます。つまりレベルが高いという事です。
その試合を見ながら、プレーの美しさに感動していました。パスの出し方、ボールの受け取り方、
ドリブルの仕方、シュートの仕方、選手の動き、そして、何よりも美しかったのは、ボールの動きでした。
ボールが選手によって運ばれていく様は、本来ボールがそう望んで動いているような、人とボールが
一体になったような滑らかな動きでした。
「本来の動きをしているのは、なんて美しいのだろう」 そう感激しながら見ていました。その時、
ふっと思ったのが、SMをしている時の自分の格好でした。例えば、縛られた姿、例えば、ボールギャグを
はめられた姿、例えば外で裸でしゃがまされた姿。どれも普通ではない恥ずかしさと共に、不格好な
姿をしていると思っていました。
だから恥ずかしいから見られたくない、恥ずかしいけれど見られたいという気持ちの他に、こんな無様な
姿を見たら、ご主人さまの気がそがれるのではないかと心配でした。
でも、サッカーの試合を見ながら、もし、その不格好な姿でも、それが奴隷として本来の姿なら、
そこに美があるのではないかと思ったのです。実はそう考えても私はまだその姿が美しいとは
思えないので見てもらうのは申し訳ないのですが、ご主人さまに美しいと感じてもらえるのなら、
または楽しんでいただけるのなら、どんな姿でも見ていただきたいと思いました。
主に皮膚感覚なのですが、私は、風が頬を撫でていってもイク時があります。
その皮膚感覚を増大化しているのは、精神的なものだと思います。Mに目覚めてから感覚が鋭くなったような
気がします。普段の私は、とろいので、鋭い感性とか縁がないように思えるのですが、支配者に出会い、
一匹の牝イヌとしての自覚が出来てみると、嬉しい時にはしっぽを振り、人間の機微など分からないだけ
だった犬の私が、人間には聞こえない音を聞こえるようなイヌの本能に目覚めたように感じる時があります。
普通の恋人同士だったら、もっと甘えられたり、わがままを言ったり、のんびりしていても良いのでしょうけれど、
奴隷は、それ以上に、ご主人さまの心の襞の奥まで感じ、応えたいと思うのです。
(奴隷が甘えたり、わがままを言ったりしては、イケナイとは思っていません)
そう願う気持ちが、私の感性を磨いていくような気がします。そして、願わくば、ご主人さまの感性も
UP出来れば、嬉しいです。感じるのが大きい方が、気持ち良いと思いますから。
Mとして過ごすようになってから、目にするもの、耳にするもの、肌に感じるもの、みんな気持ち良さが
増えました。そして精神的にも感覚が研ぎ澄まされていくようです。
ある意味では、SMは相手あっての事。その相手の事、自分の事、考えれば考えるほど、感性は
磨かれていくのではないでしょうか。
SMとはいえ、出来ることと出来ないことがあります。それは、人によっても違うし、生き方とかによっても違うと思います。
以前に、コート一枚で、ご主人さまに逢いに行ったことがあります。私は、ご主人さまに会いに行く事以外は
考えていなくて、ご主人さまの前に出る裸の姿に、外に出るからコートを着て、電車を乗り継いで出かけました。
その時、ご主人さまは 「イイコだ」 と褒めて下さいましたが、「無茶はだめだよ」と注意もしてくれました。
「どうせ帰りはボーッとしているんだから、痴漢にでもあったら、どうするの?」と言われて、初めて帰りの事を考えました。
「多少の無理はさせても、無茶はさせない」 と言われて、私の中で、無理と無茶の定義が出来たように思いました。
誰にでも限界はあると思います。そして、それは、広げられる時もあるし、広げようとしたら壊れてしまう時もあると
思います。その判断は、ご主人さまも、奴隷本人も、きちんと見極めないと大変なことになると思います。
この人それぞれを見極めなければならないので、相手が誰でもいいということには、なりません。
無理なことは、努力して頑張りたい。でも、わずかでも無茶なことはしない。私は、そう思っています。
いつまでも尽くせる奴隷で居られるように。
縛られることは、それ自体でも気持ちが良くて、好きなことでもあります。どんな縛られ方が好きかと問われれば、
正直なところ、なんでもです。縄も拘束具も、手で押さえつけられるのも、感じてしまいます。
縄にも、麻縄とか綿ロープとか色々あって、どれも好きですが、ボンデージ系のどれも好きです。
縛りといって、すぐに思い浮かべるのは、後ろ手で、胸の上下を縛り上げられるものです。
縛り方にも、見た目がきれいなもの、実用的なもの、思いっきり縛り上げているものなど、色々あります。
好みとしては、縛られてすぐに解かなければいけないような無理なものでなく、縛られたまま、ご奉仕出来るような
縛られ方が好きです。でも、吊られてみたいとかも考えてしまいます。
例えば、縛られている事を忘れてしまうほど自然な縛りでありながら、常に締め付けてくるような縛り。
きついけれど痛くなく、緩む事もなく食い込んでいるような縛られ方が好きです。って、書いていると
思わず想像して酔ってしまいます。
マゾにプライドがあるかどうかという話題を聞いた事があります。被虐願望のマゾにプライドはないとか、
マゾだからこそ持つプライドがあるとか、ご主人さま以外に跪かないのがプライドだとか、マゾを誇る気持ちは
ないからプライドは持っていないとか、聞いた事があります。
皆様は、どう思われますか?
確かに被虐願望があること自体を誇るものではないかとも思いますが、私は、マゾである事に誇りがあります。
どうしてかというと、私がマゾのみだからです。他の存在は、付属に過ぎません。
他の存在を持っている人は、そちらで誇りを感じればいいのでしょうけれど、マゾでしかない私は、マゾであることが誇りです。
Copyright(C)2001.美砂子