実 説
青山播磨とお菊さんのものがたり





皿屋敷のルーツ 怪談といえば、江戸時代、古くは平安の昔から神代に遡っても不思議ではない。
どの民族にもある伝説、説話、伝承文学の一種として語られているものだ。
日本にも、数多くの怪談がある。その中でも「番町皿屋敷」は五本の指に入る
ほど有名なものだ。

無実の罪を着せられて斬られたあげく井戸に放り込まれたお菊さんが、もの哀しい
声で「いちま〜い、にま〜い」とお皿の数を勘定する物語は日本人なら知らない人は
いないといっても過言ではない。

ところがこれが意外に新しいのである。由来は大正五年、岡本綺堂によって書かれた
戯曲「番町皿屋敷」が発端である。もちろん原典のようなものがカーなかったわけでは
ないのだが、これはあくまで平凡な史実であって怪談の匂いがするものではなかった。

綺堂の皿屋敷にしても、恋人の青山播磨の心を試そうと計ったお菊が割った家宝の
皿を、初めは笑って許していた男が試されたと知って、卑しい女の心根を許せないと
言って成敗する。皿を数えるのはむしろ青山播磨のほうで、五枚まで割ってお菊を
斬るという、極めて日本的な発想の純愛物語なのである。

だから四谷怪談のような複雑なストーリーもなければ、累ケ淵のような身も凍る恐怖
もない。それがたちまち人々からもてはやされ、一世を風靡してのは、一にかかって
あの「いちま〜い、にま〜い」というお菊さんの声の演出にある。恐怖とか笑いという
感覚は、万人共通、万代普遍のツボを持った人間の心理なのだと、つくづく感じさせ
られる作品である。
番町か播州か ところで、岡本綺堂の戯曲はあくまで「番町皿屋敷」だ。現在で言えば東京都麹町
一番町、二番町から六番町まで、江戸っ子の世界なのである。舞台は麹町山王下、
登場人物はおなじみ幡隨院長兵衞の子分並木の長吉、橋場の仁助などが脇役で、
水野十郎左衛門の名前が出てきたりして、時代は明暦の初年、1600年代である。

ところが実際に歌舞伎狂言として上演されたのは享保五年1720年でそのときの
演題は「播州評判錦皿九枚館」であった。その後寛保元年1741年には大阪の
豊竹座で初演された浄瑠璃「播州皿屋敷」が大当たりして怪談の定番となったと
記録されている。つまり、この噺の原点は江戸ではなく播州、兵庫県あたりだった
のである。

さらに、面白いことには、こうしたいわゆるお菊伝説は他にもいたるところにある。

播州姫路で、お家乗っ取りを企む青山鉄山一味は、悪るだくみを忠臣船瀬三平の
妻お菊に立ち聞かれてしまった。そ葬るためにお菊が御家から預かっていた皿を
1枚隠し、責任を負わせて殺害し、死体を井戸に投げ込んでしまいます。そうすると
お菊の怨霊が毎夜井戸に出てきて鉄山一味を懲らしめたという播州説。

摂州尼崎の城主青山播磨守の部下に喜多玄番という武士がいた。喜多玄番の妻
喜多が玄番と侍女のお菊との関係を嫉妬し、お菊が準備した食事に針を混ぜた。
玄番は針が出てきたことに怒り、お菊さんを井戸に投げ込んで殺害してしまうのだが
その後様々な凶事が発生し、名跡も断絶してしまったという摂州尼崎説。

そしてお菊の墓は神奈川県平塚の晴雲寺にあるお菊塚、東京は杉並区永福町の
栖岸院、台東区西浅草の本然寺に「お菊稲荷」があるという。こうなるとどれが本物
なのやら見当もつかないが、やはり「いちま〜い、にま〜い」というあの声は万人の
胸を打つ響きがあるのだと言わざるをえないのだろう。




番町皿屋敷
作・岡本綺堂

   登場人物

青山播磨(はりま)
用人 柴田十太夫
奴(やつこ) 權次(ごんじ) 權六
青山の腰元 お菊 お仙
澁川の後室(こうしつ) 眞弓(まゆみ)
放駒四郎兵衞(はなれごましろべゑ)
並木の長吉
橋場の仁助
聖天(しやうてん)の萬藏
田町(たまち)の彌作
ほかに若党 陸尺(ろくしやく) 茶屋の娘など




     第一場

麹町、山王下。正面はたかき石段にて、上には左右に石の駒寄(こまよ)せ、石灯籠などあり。桜の立木の奥に社殿遠くみゆ。石段の下には桜の大樹、これに沿うて上のかたに葭簀張(よしずばり)の茶店あり。店さきに床几(しやうぎ)二脚をおく。明暦(めいれき)の初年、三月なかばの午後。

幡隨院長兵衞(ばんずゐゐんちやうべゑ)の子分並木の長吉、橋場の仁助は床几に腰をかけてゐる。茶店の娘は茶を出してゐる。宮神楽(みやかぐら)の音きこゆ。)
娘 お茶一つおあがりなされませ。
長吉 桜も今が丁度盛りだね。
娘 こゝ四五日のところが見頃でござります。それに当年はいつもよりも取分けて見事に咲きました。
長吉 山王の桜といへば、おれたちが生れねえ先からの名物だ。山の手で桜と云やあ先づこゝが一番だらうな。
仁助 それだから俺達もわざ/\下町から登つて来たのだ。それで無けりやああんまり用のねえところだ。
長吉 これ、神様の前で勿体ねえことを云ふな。山王様の罰があたるぞ。
仁助 山王様だつて怖えものか。おれには観音様が附いてゐるのだ。
娘 お背中にぢやあございませんか。(笑ふ。)
仁助 やい、やい、こん畜生。ふざけたことを云やあがるな。
長吉 まあ、静かにしろ。どうせ姐(ねえ)さんに褒(ほ)められる柄ぢやあねえや。はゝゝゝゝゝゝ。
娘 ほゝ、とんだ粗相を申しました。
(ふたりは茶をのんでゐる。石段の上より青山播磨、廿五歳、七百石の旗本。あみ笠、羽織、袴。あとより權次、權六の二人、いづれも奴にて附添ひ出づ。)
播磨 桜はよく咲いたな。
權次 まるで作り物のやうでござりまする。
權六 たなばたの赤い色紙(いろがみ)を引裂いて、そこらへ一度に吹き付けたら、斯うもあらうかと思はれまする。
播磨 はて、むづかしいことを云ふ奴ぢや。それより一口に、祭礼の軒飾りのやうぢやと云へ。はゝゝゝゝゝ。
(三人は笑ひながら石段を降りる。)
娘 お休みなされませ。
(三人は上の方の床几にかゝる。長吉と仁助は見てさゝやき合ふ。娘は茶を汲んで三人に出す。)
長吉 おい、ねえさん。こつちへももう一杯呉(く)んねえ。
娘 はい、はい。(茶を汲んで来る。)
長吉 (飲まうとしてわざと顔をしかめる。)こりやあ熱くつて飲めねえや。
(長吉はわざとその茶を播磨の前にぶちまける。)
權次 やあ、こいつ無礼な奴。なんで我等のまへに茶をぶちまけた。
權六 かう見たところが粗相でない。おのれ等喧嘩を売らうとするのか。
長吉 売らうが売るめえがこつちの勝手だ。買ひたくなけりや買はねえまでだ。
仁助 一文奴(やつこ)の出る幕ぢやあねえ、引込んでゐろ。こつちは手前達を相手にするんぢやねえや。
播磨 然らば身どもが相手と申すか。(笠を取る。)仔細(しさい)もなしに喧嘩を売る、おのれ等のやうなならずものが八百八町にはびこればこそ、公方様(くばうさま)お膝元が騒がしいのぢや。
(この以前より放駒の四郎兵衞、町奴のこしらへにて子分二人をつれ、石段を降り来り、中途に立ちて窺(うかが)ひゐたりしが、この時ずつと前に出る。)
四郎兵衞 仔細(しさい)もなしに咬み付くやうな、そんな病犬(やまいぬ)は江戸にやあゐねえや。白柄組(しらつかぐみ)とか名を付けて、町人どもを嚇(おど)してあるく、水野十郎左衞門の仲間のお侍、青山播磨様と仰しやるのは、たしかあなたでごぜえましたね。
萬藏 さうだ、さうだ。この正月に山村座(やまむらざ)のまへで、水野と喧嘩をしたときに、たしかに見かけた侍だ。
彌作 違(ちげ)えねえ。坂田の何とかいふ奴と一緒になつて、その白柄をひねくり廻したのを、俺あちやんと覚えてゐるんだ。
(長吉と仁助は床几をゆずり、四郎兵衞はまん中に腰をかける。)
播磨 むゝ、白柄組の一人と知つて喧嘩を売るからは、さてはおのれは花川戸(はなかはど)の幡隨院長兵衞が手下の者か。
四郎兵衞 お察しの通り、幡隨院長兵衞の身内でも、ちつとは知られた放駒の四郎兵衞。
長吉 並木の長吉。
仁助 橋場の仁助。
萬藏 聖天の萬藏。
彌作 田町の彌作だ。
權次 やい、やい。こいつら素町人(すちやうにん)の分際で、歴々の御旗本衆に楯突(たてつ)かうとは、身のほど知らぬ蚊とんぼめ等。それほど喧嘩が売りたくば、殿様におねだり申すまでもなく、云値(いひね)でおれ達が買つてやるわ。
權六 幸ひ今日は主親(しゆうおや)の命日といふでも無し、殺生するにはあつらへ向きぢや。下町から蜿(のた)くつて来た上り鰻、山の手奴が引つ掴んで、片つぱしから溜池(ためいけ)の泥に埋めるからさう思へ。
四郎兵衞 そんな嚇(おど)しを怖がつて、尻尾をまいて逃げるほどなら、白柄組が巣を組んでゐる此の山の手へのぼつて来て、わざ/\喧嘩を売りやあしねえ。こつちを溜池へぶち込む前に、そつちが山王の括(くゝ)り猿、御子供衆のお土産にならねえやうに覚悟をしなせえ。
播磨 われ/\が頭(かしら)とたのむ水野殿に敵意を挟んで、とかくに無礼をはたらく幡隨院長兵衞、いつかは懲(こ)らしてくれんと存じて居つたに、その子分といふおのれ等が、わざと喧嘩を挑(いど)むからは、もはや容赦(ようしや)は相成らぬ。望みの通り青山播磨が直々(ぢき/\)に相手になつてくるゝわ。
四郎兵衞 いゝ覚悟だ。お逃げなさるな。
播磨 なにを馬鹿な。
子分四人 えゝ、休めちまへ、休めちまへ。
(播磨も權次權六も身がまへする。四郎兵衞、その他四人も身繕(みづくろ)ひして詰めよる。娘はうろ/\してゐる。この時、陸尺(ろくしやく)に女の乗物をかゝせ、若党二人附添ひて走らせ来り、喧嘩のまん中へ乗物をおろす。)
長吉 おい、おい。お前達も目さきが利かねえ。
仁助 こゝへ、そんなものを卸(おろ)してどうするんだ。
二人 退いてくれ、退いてくれ。
(權次權六は若党の顔を見ておどろく。)
權次 おゝ、こなたは小石川の。
權六 澁川様の御乗物か。
(乗物の戸をあけて澁川の後室眞弓、五十余歳、裲襠(うちかけ)すがたにて出づ。)
播磨 おゝ、小石川の伯母上、どうしてこゝへ……。
眞弓 赤坂の菩提所(ぼだいしよ)へ仏参のかへり路、よいところへ来合せました。天下の御旗本ともあるべき者が、町人どもを相手にして、達引(たてひき)とか達入(たていれ)とか、毎日毎日の喧嘩沙汰、さりとは見あげた心掛ぢや。不断からあれほど云うて聞かしてゐる伯母の意見も、そなたといふ暴れ馬の耳には念仏さうな。主が主なら家来までが見習うて、權次、權六、そち達も悪あがきが過ぎませうぞ。
權次權六[#「權次」と「權六」は横並びになっている] あい、あい。(頭を押へてうづくまる。)
四郎兵衞 見れば御大家の後室様、喧嘩のまん中へお越しなされて、このお捌(さば)きをお付けなさる思召(おぼしめし)でござりますか。御見物ならもう少しあとへお退(さが)り下さりませ。
眞弓 差出た申分かは知りませぬが、この喧嘩はわたしに預けてはくださりませぬか。播磨はあとで厳(きび)しう叱ります。まあ堪忍して引いてくだされ。
四郎兵衞 さあ。(思案する。)
長吉 でも、このまゝで手を引いては。
仁助 親分に云訳があるめえぜ。
萬藏 今更あとへ引かれるものか。
彌作 かうなるからは命の取遣りだ。
四人 かまはずに遣(や)つちまへ、遣つちまへ。
眞弓 不承知とあればわたしがお相手。
四郎兵衞 え。
眞弓 それとも素直に引いてくださるか。
四郎兵衞 こりやあ困りましたね。いくら御武家にしたところが、女を相手に町奴がまさかに喧嘩もなりますまい。喧嘩は元より出たとこ勝負。けふに限つたことでもござりませぬ。おまへ様のおあつかひに免じて、こゝは素直に帰りませう。長吉も仁助も虫をこらへろ。
眞弓 よう聞き分けて下された。そんならこゝはおとなしう。
四郎兵衞 どうも失礼をいたしました。もし、白柄組のお侍。いづれ又どこかで逢ひませうぜ。(長吉仁助等に。)今聞く通りだ。さあ、みんな早く来い、来い。
長吉仁助[#「長吉」と「仁助」は横並びになっている] あい、あい。
(四郎兵衞は先にたちて、長吉と仁助と子分二人は去る。)
眞弓 これ、播磨。こゝは往来ぢや。詳しいことは屋敷へ来た折に云ひませうが、武士たるものが町奴とかの真似をして、白柄組の神祇(じんぎ)組のと、名を聞くさへも苦々(にが/\)しい。喧嘩がなんで面白からう。喧嘩商売は今日かぎり思ひ切らねばなりませぬぞ。
播磨 はあ。
眞弓 きかねば伯母は勘当ぢや。わかりましたか。
播磨 はあ。
眞弓 それ。
(眞弓は眼で知らすれば、陸尺は乗物を舁(か)きよせる。眞弓は乗物に乗りしが、再び首を出す。)
眞弓 これ、播磨。そちが悪あがきをすると云ふも、一つにはいつまでも独身(ひとりみ)でゐるからのことぢや。この間もちよつと話した飯田町の大久保の娘、どうぢや、あれを嫁に貰うては。
播磨 さあ。(迷惑さうな顔。)喧嘩のことは兎もかくも、その縁談の儀は……。
眞弓 忌(いや)ぢやと云ふのか。(かんがへる。)ほかの事とも違うて、これは無理強ひにもなるまいか。そんならそれはそれとして、かへすがへすも白柄組とやらの附合は、きつと止めねばなりませぬぞ。
播磨 はあ。
(眞弓は乗物の戸をしめる。若党等は播磨に一礼して向うへ乗物を舁(か)いてゆく。)
權次 殿様。悪いところへ伯母御様がお見えになりまして。
權六 わたくし共までが飛んだお灸を据ゑられました。
播磨 (笑ふ。)伯母様は苦手ぢや、所詮あたまは上らぬわ。今伯母様に叱られた、その白柄組の水野どのは、仲間のものを誘ひ合せて、今夜わが屋敷へまゐらるゝ筈ぢや。酔うたら又面白い話があらう。
(風の音して桜の花ちりかゝる。)
播磨 おゝ、散る花にも風情があるなう。どれ、そろ/\帰らうか。
權次權六[#「權次」と「權六」は横並びになっている] はあ。
(權次は茶代を置く。娘は礼をいふ。播磨は行きかゝる。)

     第二場

番町青山家の座敷。二重屋体にて上(かみ)のかたに床の間、つゞいて襖。庭には飛び石。上の方に井戸ありて、井戸のほとりに大いなる柳を栽ゑたり。おなじ日の夕刻。

(上の方より庭づたひに、用人柴田十太夫が先に立ち、腰元お菊、お仙の二人出づ。ふたりは高麗焼(かうらいやき)の皿五枚を入れたる箱を持つ。)
十太夫 これ、大切の御品ぢや。気をつけて持つてゆけ。よいか。
二人 かしこまりました。
十太夫 唯今お蔵から取出したばかりで、別に仔細もあるまいが、念には念を入れよと云ふこともある。お勝手へ持つて退(さが)るまでに兎もかくも一度吟味をいたさう。その箱をそれへ運べ。
二人 はい、はい。
(三人は縁にあがる。お菊は先づ箱をあけて五枚の皿を出す。十太夫は眼鏡をかけて一々にあらためる。つゞいてお仙も五枚の皿を出す。十太夫はおなじく検(あらた)めてうなづく。)
十太夫 よし、よし、十枚ともに別条ない。くどくも申すやうなれど、これは大切のお品ぢや。かならず粗相があつてはならぬぞ。
お仙 御用人様。この十枚のお皿が何うしてそのやうに大切なのでござりまする。
十太夫 そちは新参、詳しいわけをよく知るまいが、このお皿は高麗焼で、御先祖様から代々伝はるお家の宝ぢや。万一あやまつてその一枚でも打砕いたら厳しいお仕置、先づ命はないものと覚悟せい。
お仙 え。(顫へる。)
十太夫 ぢやによつて滅多に取出したことはないのぢやが、今宵は白柄組のお頭水野十郎左衞門様がお越しに相成るについて、殿様格別のお心入れで、御料理の器(うつは)にそのお皿をおつかひなさる。又しても諄(くど)く申すやうぢやが、一枚一枚鄭重に取りあつかへ。割るは勿論、疵(きず)をつけても一大事ぢやぞ。よいか。
二人 はい、はい。
十太夫 殿様がお帰りになるまでに、あちらのお客間を取片附けて置かねばならぬ。では、そのお皿を元のやうに箱に入れて、お勝手の方へ運んでおけ。やれ、忙しいことぢや。
(十太夫はそゝくさと庭に降りて上(かみ)の方(かた)に去る。お仙はあとを見送る。)
お仙 ほんにいつも/\気ぜはしいお人ぢや。併しそれほど大切なお皿ならよく気をつけて取扱はねばなるまい。なう、お菊どの。はて、お前は何をうつとりとしてゐるのぢや。
お菊 (突然に。)お仙どの。
お仙 なんぢやえ。
お菊 このごろ殿様は御縁談があるとかいふ噂ぢやが、お前それをほんたうと思ふかえ。
お仙 さあそれは、新参のわたしには判らぬが、なにやらそんなお噂がないでも無いやうな。
お菊 無いでもないやうな。(口のうちで繰返す。)若しあつたとしたら。
お仙 おめでたいことぢや。
お菊 さうかも知れぬ。(腹立たしげに云ひしが又思ひ直して。)いや、それは嘘であらう。嘘ぢや、嘘ぢや。うそに違ひない。
お仙 でも、殿様ももうお年頃ぢや。奥様をお貰ひなさるに不思議はあるまい。
お菊 奥様……。(又腹立たしげに。)内の殿様は奥様などお貰ひなさる筈がないのぢや。
お仙 はて、そんなに怖い顔をして、なぜわたしを睨むのぢや。お前はこのごろ様子が変つて、ぢつと考へてゐるかと思へば、急にじれたり怒つたり、なにか気合でも悪いのかえ。
(お菊はだまつて俯向(うつむ)いてゐる。琴唄のやうな独吟になる。)
唄※世の中の花はみじかき命にて、春は胡蝶の夢うつつ、なにが恋やら情(なさけ)やら。
(お仙は五枚の皿を片附けて箱に入れる。お菊はやはり考へてゐる。)
お仙 おとなりのお屋敷では又いつものお琴のお浚(さら)ひが始まつたやうな。(箱をかゝへて起つ。)さあ、おまへも早うお勝手へ……。わたしは一足さきへ行きますぞえ。
(お仙は庭に降りて下の方に去る。)
お菊 (苛々(いら/\)して。)えゝ、なんとしたものであらう。わたしといふ者を打捨てて、ほかの奥様をお貰ひ遊ばすやうな、そんな嘘つきの殿様でないことは、不断からよく知つてゐるものの、小石川の伯母様の御媒介(おなかうど)で、飯田町の大久保様とやらから奥様をお迎へなさる、内相談があるとやら。(また考へる。)いや、それはほんの人の噂ぢや。おゝ、さうぢや。現にこのあひだも殿様にそれを云うて念を押したら、えゝ、馬鹿め、おれを疑ふにも程がある。まあ、黙つて長い目で見てをれ、とたゞ一口に叱りなされた。叱られて嬉しかつたも束(つか)の間(ま)で、又なんとやら疑ひの芽が噴いてくる……。えゝ、もうどうともなれ。
唄※物に狂ふか青柳も、風のまに/\もつれて解けて、糸のみだれの果しなき。
(お菊は少しく悶(じ)れたる気味にて皿を片づけてゐたりしが、また手をやすめて考へる。)
お菊 よもやとは思ふものの、万一ほんたうに奥様が来るやうであつたら……。えゝ、気の揉めることぢや。たとへ口ではなんと仰せられても、男はいつはりの多いものとやら。なんとかして殿様の、心の奥の奥を確かに見きはめる工夫はないものか。(思案しながら我手に持つたる皿にふと眼をつける。)お家に取つては大切な宝といふこの皿を、もしも妾(わたし)が打砕いたら……。(又かんがへる。)とは云ふものの、大切なお道具を、むざ/\毀(こは)すは勿体ない。
唄※雲さへ暗き雨催ひ、故郷の空はいづこぞと、ゆくてに迷ふ雁(かり)の声。
(お菊は皿をながめて、毀さうか毀すまいかと迷つてゐる。)
お菊 えゝ、もう寧(いつ)そのこと。
唄※しづ心なく散りそめて、土に帰るか花の行末。
(この以前よりお仙は下手(しもて)より出で来りてうかゞひゐる。お菊は思ひ切つて一枚の皿を取り、縁の柱に打ち付けて割る。この途端に、下の方にて「お帰り」と大きく呼ぶ声。お仙は早々に下の方へ立去る。上の方より庭づたひにて十太夫足早に出づ。)
十太夫 おゝ、もうお帰りぢや。(下の方へ行かんとしてお菊をみる。)お菊、まだそこに居つたのか。や、お皿をどうぞ致したか。これ、お菊。(あわてて縁に上る。)や、大切のお皿を真二つに……。こ、こりや何(ど)ういたしたのぢや。仔細をいへ、仔細を申せ。
(十太夫はおどろき怒つて詰めよる。お菊は黙つて手をついてゐる。)
十太夫 えゝ、黙つてゐては判らぬ。こ、こりや一体どうしたのぢや。さつきもあれほど申聞かせて置いたに……。かやうな粗相を仕出来(しでか)しては、そちばかりではない、この十太夫もどのやうな御咎(おとが)めを受けうも知れぬ。こりや飛んでもないことに相成つたぞ。
(十太夫も途方に暮れてゐるところへ、奥の襖をあけて青山播磨つか/\出づ。)
十太夫 お帰り遊ばしませ。御出迎へと存じましたる処、おもひも寄らぬ椿事(ちんじ)が出来(しゆつたい)いたしまして、失礼御免くださりませ。
播磨 思ひもよらぬ椿事……。(打笑む。)十太夫が又なにか狼狽(うろた)へて居るな。あわて者め。はゝゝゝゝゝ。
十太夫 いや、あわてずには居られませぬ。殿様、これ御覧くださりませ。(皿を指さす。)
播磨 (割れたる皿を見ておどろく。)や、高麗の皿を真二つに……。誰が割つた。(怒る。)
お菊 わたくしが割りました。
播磨 菊、そちが割つたか。(かんがへて。)定めて粗相であらうな。
お菊 はい、恐れ入りましてござりまする。大切なお皿を損じましたは、わたくしが重々の不調法、どのやうな御仕置を受けませうとも決してお恨みとは存じませぬ。
播磨 おゝ、先づ以て神妙の覚悟ぢや。青山の家に取つては先祖伝来大切の宝ではあるが、粗相とあれば深く咎めるわけにもまゐるまい。以後はきつと慎めよ。
お菊 はい。ありがたうござりまする。(安心して喜ぶ。)
播磨 幸ひ今夕(こんせき)の来客は水野殿を上客として、ほかに七人、主人をあはせて丁度九人ぢや。皿が一枚かけても事は済む。なう、十太夫。
十太夫 左様でござりまする。しかし御客人の御都合は兎(と)もあれ、折角十枚揃ひましたる大切の御道具を、一枚欠きましたる不調法は、手前も共におわび申上げまする。
播磨 (打笑む。)いや、いや、心配いたすな。たとひ先祖伝来とは申せ、鎧兜槍刀のたぐひとは違うて、所詮は皿小鉢ぢや。わしは左のみ惜いとも思はぬ。しかし昔形気の親類どもにきこえると面倒、表向きは矢はり十枚揃うてあることに致しておけ。
十太夫 はあ。
播磨 御客人もやがて見えるであらう。座敷の用意万端とゞこほりなく致して置け。そちは名代の粗忽者ぢや、手落のないやうに気をつけい。
十太夫 委細心得てをりまする。万事手ぬかりのない筈とは存じて居りまするが、ではもう一度念のために、御座敷を見廻つてまゐりまする。御免くだされ。
(十太夫はそゝくさと再び庭伝ひに上のかたへ去る。お菊は残る四枚の皿を箱に入れる。)
お菊 とんだ粗相をいたしまして、なんとも申訳がござりませぬ。(手をつく。)
播磨 はて、くどう申すな。一度詫びたらそれでよい。まことを云へば家重代の高麗皿、家来があやまつて砕く時は手討にするが家の掟ぢやが、余人は知らず、そちを手討になると思ふか。はゝゝゝゝゝ。砕けた皿は人の目に立たぬやうに、その井戸のなかへ沈めてしまへ。
お菊 はい、はい。
(お菊は嬉しげに起つて、先づ皿の箱を縁さきに持ち出し、更に欠けたる皿を取りて庭に降り、上の方の井戸になげ込む。)
お菊 では、わたくしもお勝手へ退(さが)りまする。
(皿の箱をかゝへる。)御免くださりませ。
(下の方へ行きかゝる。)
播磨 待て、待て。左様に逃げてまゐるな。勝手の用はほかの女どもに任して置いて、まあこゝで少し話してゆけ。
お菊 はい。(嬉しげに縁に腰をかける。播磨も縁さきに進み出る。)
播磨 母から此頃にたよりはないか。
お菊 この一月ほどなんのたよりも聞きませぬが、大方無事であらうと存じてをりまする。
播磨 親ひとり子一人ぢや、いつそ此の屋敷内へ引取つてはどうぢやな。母は屋敷住居は嫌ひかな。
お菊 いえ、嫌ひではござりませぬが、母を御屋敷へ連れてまゐりまするには、なにも彼も打明けねばなりませぬ。
播磨 なにもかも……。(打笑む。)隠すことはない。母にも打明けたらよいではないか。
お菊 でも……。それは……。(恥かしげにうつむく。)
播磨 恥かしいか。もう斯うなつたら誰に憚(はゞか)ることもない。天下の旗本青山播磨を婿(むこ)にきめましたと、母のまへで立派に云へ。
お菊 云うても大事ござりませぬか。
播磨 そちの口から云はれずば、母を兎もかくも屋敷へ連れてまゐれ。わしから直々に打明けて申すわ。若しその時に、母が播磨を婿にするは不承知ぢやと申しても、そちは矢はりこゝに居るであらうな。
お菊 たとひ母がなんと申しませうとも……。
播磨 いつまでもこゝに居るか。
お菊 はい。
播磨 それを屹(きつ)と忘るゝなよ。
(二人は顔を見あはせて打笑む。上の方より十太夫足早に出づ。)
十太夫 殿様。その菊と申す女は重々不埒(ふらち)な者でござりまする。(敦圉(いきま)いて云ふ。)
播磨 なにが不埒ぢや。皿を割つたのは粗相と申すではないか。それともまだほかに何か曲事(きよくじ)を働いたか。
十太夫 いや、その皿を割つたのは粗相ではござりませぬ。縁の柱にうち付けて、自分で割つたと申すこと。
播磨 自分でわざと割つたと申すか。
十太夫 朋輩のお仙がたしかに見届けたと申しまする。粗相とあれば致方もござりませぬが、大切のお品をわざと打割つたとは、あまりに法外の致し方。殿様が御勘弁なされても、手前が不承知でござります。きつと吟味をいたさねば相成りませぬ。
播磨 さりとは不思議のことを聞くものぢや。こりや菊。さだめて粗相であらうな。
十太夫 いや、粗相とは云はせませぬ。
播磨 はて、騒ぐな。どうぢや、菊。十太夫はあのやうに申して居るが、よもやさうではあるまいな。はつきりと申開きをいたせ。
お菊 (胸を据ゑて。)実は御用人様のおつしやる通り……。
播磨 わざと自分の手で打割つたか。
お菊 はい。
播磨 むゝ。(十太夫と顔を見あはせる。)さりとて気が狂うたとも思はれぬ。それにはなにか仔細があらう。わしが直々に吟味する。十太夫はしばらく遠慮いたせ。
十太夫 いや、はや、呆れた女でござる。こりや、菊……。
播磨 (じれる。)よい、よい。早くゆけ。
(十太夫は上のかたに引返して去る。)
播磨 こりや、菊。そちはなんと心得て、わざと大切の皿を割つた。仔細を申せ。(物柔かに云ふ。)
お菊 おそれ入りましてござりまする。
播磨 最前も申す通り、その皿を割れば手討に逢うても是非ないのぢや。それを知りつゝ自分の手で、わざと打割りしとあるからは、よく/\の仔細がなくてはなるまい。つゝまず云へ。どうぢや。
お菊 もう此上はなにをお隠し申しませう。由ないわたくしの疑ひから。
播磨 疑ひとはなんの疑ひぢや。
お菊 殿様のお心をうたがひまして……。
(播磨はだまつてお菊の顔を睨む。)
お菊 このあひだも、鳥渡(ちよつと)お耳に入れました通り、小石川の伯母御様が御媒介で、どこやらの御屋敷から奥様がお輿入(こしい)れになるかも知れぬといふお噂、あけても暮れてもそればつかりが胸につかへて……。恐れながら殿様のお心を試さうとて……。
播磨 むゝ、それで大方仔細は読めた。それに就いてこの播磨が、そちを唯一時の花とながめて居るか、但しは、いつまでも見捨てぬ心か。その本心を探らうために、わざと大切の皿を打破つて、皿が大事か、そちが大事か、播磨が性根をたしかに見届けようと致したのであらう。菊、たしかにさうか。
お菊 はい。
播磨 それに相違ないか。
お菊 はい。
(播磨は矢庭にお菊の襟髪を取つて縁にねぢ伏せる。)
播磨 えゝ、おのれ、それ程までにして我が心を試さうとは、あまりと云へば憎い奴。こりやよく聞け。天下の旗本青山播磨が、恋には主家来の隔てなく、召仕へのそちと云ひかはして、日本中の花と見るはわが宿の菊一輪と、弓矢八幡、律義(りつぎ)一方の三河武士がたゞ一筋に思ひつめて、白柄組のつきあひにも吉原へは一度も足ぶみせず、丹前風呂でも女子のさかづきは手に取らず。かたき同士の町奴と三日喧嘩せぬ法もあれ、一夜でもそちの傍を離れまいと、かたい義理を守つてゐるのが、嘘や偽りでなることか、積(つも)つてみても知るゝ筈。なにが不足でこの播磨を疑うたぞ。
(お菊の襟髪をつかんで小突きまはす。お菊は倒れながらに泣く。)
お菊 その疑ひももう晴れました。お免(ゆる)しなされてくださりませ。
播磨 いゝや、そちの疑ひは晴れようとも、うたがはれた播磨の無念は晴れぬ。小石川の伯母はおろか、親類一門がなんと云はうとも、決してほかの妻は迎へぬと、あれほど誓うたをなんと聞いた。さあ、確(しか)と申せ。なにが不足でこの播磨を疑うた。なにを証拠にこの播磨を疑うた。
お菊 おまへ様のお心に曇りのないは、不断からよく知つてゐながらも、女の浅い心からつい疑うたはわたくしが重々のあやまり、真平御免(まつぴらごめん)くださりませ。
播磨 今となつて詫びようとも、罪のないものを一旦疑うた、おのれの罪は生涯消えぬぞ。さあ、覚悟してそれへ直れ。
(播磨はお菊を突き放して、刀をひき寄せる。下の方より庭づたひに奴(やつこ)權次走り出づ。)
權次 もし、殿様しばらくお控へ下さりませ。さつきから物蔭で窃(そつ)と立聞きをして居りましたら、お菊どのが大切のお皿を割つたとやら、砕いたとやら、そりやもうお菊殿の落度は重々、そのかぼそい素(そ)つ首(くび)をころりと打落されても、是非もない羽目ではござるものの、多寡(たくわ)が女子ぢや。骨のない海月(くらげ)や豆腐を料理なされてもなんの御手堪(おてごた)へもござるまい。さつきの喧嘩とは訳が違ひまする。こゝは何分この奴に免じて、そのお刀はお納めなされて下さりませ。
播磨 そちが折角の取りなしぢやが、この女の罪は赦(ゆる)されぬ。なんにも云はずに見物いたせ。
權次 一旦かうと云ひ出したら、あとへは引かぬ御気性は、奴もかねて呑み込んでは居りまするが、なんぼ大切の御道具ぢやと云うても、ひとりの命を一枚の皿と取替へるとは、このごろ流行(はや)る取替べえの飴よりも余り無雑作の話ではござりませぬか。どうでもお胸が晴れぬとあれば、殿さまの御名代(ごみやうだい)にこの奴が、女の頬桁(ほゝげた)ふたつ三つ殴倒(はりたふ)して、それで御仕置はお止めになされ。
播磨 えゝ、播磨が今日の無念さは、おのれ等の奴が知るところでない。いかに大切の宝なりとも、人ひとりの命を一枚の皿に替へようとは思はぬ。皿が惜さにこの菊を成敗すると思うたら、それは大きな料簡(れうけん)ちがひぢや。菊。その皿をこれへ出せ。
お菊 はい。
(時の鐘きこゆ。お菊は箱より恐る/\一枚の皿を出す。播磨はその皿を刀の鍔(つば)に打ちあてて割るに、お菊も權次もおどろく。)
播磨 それ、一枚……。菊、あとを数へい。
お菊 二枚……。
(お菊は皿を出す。播磨は又もや打割る。)
播磨 それ、二枚……。次を出せ。
お菊 三枚……。
(播磨はまた打割る。權次も思はずのび上る。)
權次 おゝ、三枚……。
播磨 次を出せ。
お菊 四枚……。
(播磨は又もや打割る。)
播磨 四枚……。もう無いか。
お菊 あとの五枚はお仙殿が別のお箱へ入れて持つてまゐりました。
播磨 むゝ。播磨が皿を惜むのでないのは、菊にも權次にも判つたであらうな。青山播磨は五枚十枚の皿を惜んで、人の命を取るほどの無慈悲な男でない。
權次 それほど無慈悲でないならば、なんでむざ/\御成敗を……。
播磨 そちには判らぬ。黙つてをれ。しかし菊には合点がまゐつた筈。潔白な男のまことを疑うた、女の罪は重いと知れ。
お菊 はい、よう合点(がてん)がまゐりました。このうへはどのやうな御仕置を受けませうとも、思ひ残すことはござりませぬ。女が一生に一度の男。(播磨の顔を見る。)恋にいつはりの無かつたことを、確かにそれと見きはめましたら、死んでも本望でござりまする。
播磨 もし偽りの恋であつたら、播磨もそちを殺しはせぬ。いつはりならぬ恋を疑はれ、重代の宝を打割つてまで試されては、どうでも赦すことは相成らぬ。それ、覚悟して庭へ出い。
(お菊の襟髪を取つて庭へつき落す。權次はあわててお菊を囲ふ。播磨は庭下駄をはきて降り立つ。——)
播磨 權次。邪魔するな。退け、退け。
權次 殿様。女を斬るとお刀が汚れまする。一旦柄(つか)へかけた手の遣り場がないといふならば、おゝ、さうぢや。あれ、あの井戸端の柳の幹でも、すつぱりとお遣りなされませ。
播磨 馬鹿を申すな。退かぬとおのれ蹴殺すぞ。
(權次が遮るを播磨は払ひ退けて、お菊を前にひき出す。)
權次 えゝ、殺生な殿様ぢや。お止しなされ、お止しなされ。
(權次また取付くを播磨は蹴倒す。お菊は尋常に手を合はせてゐる。播磨は一刀にその肩先より切り倒す。)
權次 おゝ、たうとう遣つておしまひなされたか。(起き上る。)可哀相になう。
播磨 女の死骸は井戸へなげ捨てい。
權次 はあ。
(權次はお菊の死骸をだき起す。上の方より十太夫は灯籠をさげて出づ。)
十太夫 おゝ、菊は御手討に相成りましたか。不憫のやうでござりまするが、心柄(こゝろがら)いたし方もござりませぬ。
權次 殿様お指図ぢや。(井戸を指す。)手伝うてくだされ。
十太夫 これは難儀な役ぢやな。待て、待て。
(十太夫は袴の股立(もゝだち)を取り、權次と一緒にお菊の死骸を上手の井戸に沈める。播磨は立ち寄つて井戸をのぞく。鐘の声。)
播磨 家重代の宝も砕けた。播磨が一生の恋もほろびた。
(下の方より權六走り出づ。)
權六 申上げます。水野十郎左衞門様これへお越しの途中で町奴どもに道を遮られ、相手は大勢、なにか彼やと云ひがかり、喧嘩の花が咲きさうでござりまする。
權次 むゝ、そんならまだ先刻の奴等が、そこらにうろついてゐたと見えるな。
播磨 よし、播磨がすぐに駈け付けて、町奴どもを追ひ散らしてくれるわ。
(播磨は股立を取りて縁にあがり、承塵(なげし)にかけたる槍の鞘(さや)を払つて庭にかけ降りる。)
十太夫 殿様。又しても喧嘩沙汰は……。
播磨 やめいと申すか。一生の恋をうしなうて……。(井戸を見かへる。)あたら男一匹がこれからは何をして生くる身ぞ。伯母御の御勘当受けうとまゝよ。八百八町を暴れあるいて、毎日毎晩喧嘩商売。その手はじめに……。(槍を取直して。)奴。まゐれ。
二人 はあ。
(播磨は足袋はだしのまゝに走りゆく。權次權六も身づくろひして後につゞく。十太夫はあとを見送る。)

——幕——   


(大正五年一月)  




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