戦後凶悪性犯罪史



米軍による婦女暴行強姦 昭和20年
(1945)
 終戦直後、連合国兵士(米兵)による婦女暴行、現金等強奪、殺人など
の犯罪が多数勃発したが、連合国軍(占領軍)の検閲により、そうした
犯罪の報道はできなくなった。米兵の犯罪を報じるのに「大男が云々」と
いった表現を用い、検閲の眼ををくぐって報じられたのが限界である。
しかし、場合によっては軍法会議で死刑判決を受けることもあった。
現在でも米軍による事件は多く存在し、そして被害者にとって納得の
いかない軽い判決に終わることがほとんどである。
小平義雄連続強姦事件 昭和21年
(1946)
 東京芝浦の増上寺境内の裏山で、二十歳くらいの女性の全裸死体が
発見される。死後十日は経っていた。しかも10m離れた場所から、
もう一体の白骨化した死体が出てきた。
その後、全裸死体は立行司Iの三女であることが判明。そして就職斡旋を
していたおじさんこと小平義雄被告(42)が8月20日に逮捕される。
その後の調べで小平被告は45年5月から46年8月まで合計10名を殺害
していたと断定された。これ以外にも、約30件の暴行を行った旨を供述
している。

[ 1 ] 1945年(昭和20年)5月25日、小平が40歳のとき、東京・品川区
の勤務先の海軍第一衣糧廠女子寮で、挺身隊員の宮崎光子(19歳)を
口説いたが断られてしまった。そこで、馬乗りになって首を絞めたのだが、
そのとき射精してしまった。このときの快感はかつて経験しなかったもの
だった。仮死状態になったところで、タバコをふかしながら蘇生するのを
待った。やがて、光子は観念したのか、自らモンペを脱いでしまう。
そこで強姦し絞殺した。死体は庭先の防空壕に隠した。

[ 2 ] 6月22日、東武鉄道新栃木駅で、今市町に疎開中の人妻の石井ヨリ
(30歳)に「米を安く売ってくれる農家がある」と声をかけ、そこからバスに
乗って真名子停留所で降り、近道があるからと、栃木県上都賀郡真名子村
の山林に連れ込んだが、少し歩いたところで、ヨリが怪しんで引き返そうと
したため、背後から飛びかかって投げ倒し、顔を殴ってから姦淫した。
途中で、相手が性的に反応しているのが分かって、一緒に楽しんだ。
翌朝4時までに3回強姦したあと、首を絞めて殺した。死体は近くの掘の
中に投げ込んだ。このとき、現金180円と唐草模様の大風呂敷1枚と
小風呂敷1枚を奪った。

[ 3 ] 7月12日、渋谷駅でキップを買う行列で並び合った横浜市の事務員
の中村光子(32歳)を「日帰りで買出しのできる農家がある」と誘い、浅草
に行って東武線に乗り換えて金崎駅で降り、近道があるからと、山林に
入り、栃木県上都賀郡清洲村の山中で、強姦しようとしたが、光子が
ナイフを取り出して抵抗した。だが、殴り倒して強姦し絞殺した。このとき、
現金40円ぐらいと腕時計1個、アルマイト製楕円形弁当箱を奪った。

[ 4 ] 7月15日、池袋駅でキップを買う行列の中にいた、リュックサックを
背負って防空頭巾にモンペ姿の出版社社員の紺藤和子(22歳)に
「一緒に買出しに行こう」と声をかけ、武蔵野線に乗って、清瀬駅で降り、
4キロほど歩いて、こっちが近道になっているからと、東京都北多摩郡
清瀬村の雑木林の中に入ってから間もなくして襲いかかった。いきなり
両手で首を絞めて下半身をあらわにして姦淫したあとで絞殺した。
このとき、現金60円を奪った。

8月15日、終戦。

[ 5 ] 9月28日、東京駅で友人を待っていた出版社経理事務員の
松下ヨシエ(21歳)を「米を売ってくれる農家に案内する」と誘い、東京都
北多摩郡清瀬村の雑木林の中で強姦しようと首を絞めようとしたが、
ヨシエは自ら裸になった。雨上がりの雑木林の中は水たまりになって
いたので、着物を濡らしたくないとの配慮からだと思った。そこで、ヨシエを
抱え込むような体位で姦淫した。だが、そのとき、栗拾いしている子供の
声がしたので、あわてて声が出ないように首を締めたが、絞め過ぎて
死んでしまった。それでもかまわず、そのまま姦淫した。

[ 6 ] 12月30日、東武鉄道浅草駅で、母の疎開先の日光へ行こうとして
いた馬場寛子(18歳)に「米が安く買える農家がある」と声をかけ、金崎駅
で降りて、近くの山林を近道だと言って、栃木県上都賀郡西方村の山中に
入ったが、暗くなったから帰ろうと言い出したので、殴りつけて両手で首を
絞めて強姦した。そのあと、息を吹き返したので、マフラーで強く絞めて
殺した。このとき、現金10数円奪った。

[ 7 ] 1946年(昭和21年)8月6日、7月初め、小平は就職の斡旋を依頼
してきた緑川柳子(17歳)と知り合っていた。柳子は相撲の行司として
有名な式守伊三郎(本名・緑川義一郎)の三女である。小平が柳子に
パンを与えてからは離れなくなった。山手線の電車で、スカートの中に
手を入れて陰部をいじったが、嫌がる様子はなかった。それが、この日
になって嫌だ、と言ったので、都内港区の芝公園裏の山道に連れ出し、
強姦して絞殺した。

8月17日、芝公園の増上寺境内の裏山で、人の高さほどに生い茂った雑草を刈り取っていた作業員が全裸の緑川柳子の腐乱死体を発見した。柳子は、8月6日に小平義雄という男と一緒に出かけていることが分かっていたことにより、20日にあっさり警視庁に逮捕されている。

裁判では10件の殺害のうち、3件については証拠不十分で無罪、7件に
ついて死刑判決を受け、1948年11月確定。49年10月宮城刑務所で執行。
小平被告は、「強盗強姦は日本軍隊のつきものですよ」と話している。
異常性格そのものは持っていたかも知れないが、それを浮かび上がらせ、
犯行に走らせたのは、実は戦争ではないだろうか

殺害日 殺害場所 被害者 職 業
5月25日 東京都品川区の第一衣糧廠女子寮 (19歳) 挺身隊員
6月22日 栃木県上都賀郡真名子村の雑木林 (30歳) 主婦
7月12日 栃木県上都賀郡清洲村の雑木林 (32歳) 事務員
7月15日 東京都北多摩郡清瀬村の雑木林 (22歳) 出版社社員
9月28日 東京都北多摩郡清瀬村の雑木林 (22歳) 経理事務員
12月30日 栃木県上都賀郡西方村の雑木林 (18歳) 無職?
8月6日 東京都港区の芝公園裏の山道 (17歳) 無職
おせんころがし屍姦事件 昭和26年
(1951)
 勝田容疑者(26)は、10月10日、千葉県小湊町で、3人の幼児と共にいた
女性(29)に強姦目的で近づいた。おせんころがしと呼ばれる断崖に
差し掛かると、まず5歳の男児と7歳の女児を崖下に投げ捨て、女性を強姦
その後2歳の幼女とともに絞殺した。
このとき、7歳の女児は崖の途中に引っかかり、奇跡的に命を取り留めた。
 1951年10月11日、千葉県で泥棒に入った家の主婦(24)を絞殺、死姦
いっしょにいた叔母(63)も出刃包丁で刺し殺した。
10月14日、逮捕される。
その後の取り調べで、1947年、付き合っていた20歳の女性、その友達の
17歳の女性を、それぞれ性交後に絞殺したことを告白。さらに1951年8月8日、
赤城山麓の人家に押し入り、女性(24)を強姦、絞殺。おせんころがし事件も
自白した。
 他にも殺人未遂、窃盗事件などがあり、戦後もっとも凶悪な男と呼ばれた。
1948年に窃盗事件で逮捕、起訴されていることから、それ以前の事件と
それ以後の事件と別々に裁判を受け、ともに死刑判決を受けた。
 一人が二度の死刑判決を受けて確定したのは初めて。以後も勝田清孝
死刑囚以外にはいない。

 ちなみにおせんころがしの由来。昔土地の豪族古仙家におせんという
一人の娘がいた。おせんは村人たちを人とも思わぬ強欲非道な父親を
改心させようと説得した。しかし、父親の心を改心させることは無理な
ことを悟り、この断崖から身を投げて、死をもって諫めた。
雑貨商一家殺人屍姦事件 昭和28年
(1953)
 K被告(26)は母親思いの働き者の青年だった。村の青年団長を務め、
真面目で礼儀正しかった。ところが、K被告の切りの父は上のない人間で、
母を下女扱いしていた。23(?)の頃、母はソコヒ(白内障)を煩い、失明した。
手術をすれば治るが、そんな大金は家にはなかった。そしてとうとう強盗
殺人を計画。1953年3月17日、小金を貯めていると噂のある村の雑貨屋に
押し入り、女主人(49)ら一家四人を絞殺。家中を探し回ったが、現金二千円
しか見つからず、腹いせに女主人とお手伝いを死姦。女物の腕時計を一個
盗んだ。
鏡子ちゃん殺人事件 昭和29年
(1954)
 54年4月19日、S被告(21)は友人に金の無心に行ったが不在で自宅に
戻る途中に尿意を催し、近くの小学校のトイレを使っていたとき、少し開いた
女子トイレのドアから鏡子ちゃん(7)のお尻が見え、急に情欲を催して
トイレに押し入り、暴行のうえ絞殺、逃亡。しかしイニシャル入りのハンカチを
落としていたため10日後に逮捕、その1週間後、S被告は自供した。
S被告は静岡県の国立療養所で結核療養中だった。しかし、入院費は滞納、
無断外泊は当たり前、借りた金は返さない、ヒロポン中毒というので評判は
悪かった。本人も、刹那的に生きようとしていたらしい。
近親相姦実父殺人事件 昭和43年
(1968)

 10月5日、栃木県矢板市に住むM被告(23)は、自宅で実父のYさん(53)を
絞殺した。M被告は中学2年の時にYに強姦され、それから10年以上も性の
捌け口の対象にされた。家には弟、妹の他に実母もいたが、実母が口を
出すとYが暴れだす始末。M被告が親戚の家に逃げ出したときも、強引に
追っかけて連れ戻す始末。とうとう二人で住むようになり、M被告は5人の
子供を産んだ。
他に5人を中絶し、とうとう子供が産めない手術を受けさせられた。ところが
29歳になったとき、アルバイト先で知り合った年下の男性と相思相愛の仲に
なった。M被告はそれをYに打ち明けたが、Yは怒り狂い、連日連夜脅迫し、
殴る蹴るの暴力を加えた。そして10日目、耐えきれなくなったM被告は、
泥酔しているYを絞め殺した。
大久保清連続殺人事件 昭和46年
(1971)
 小学校6年のとき、米兵と売春婦が野外で性交しているところをのぞく。
また、4歳の少女の性器に石を詰めて問題になったことがある。

中学の行動記録によれば、感情的で情緒不安定、協調性がなく、他人を
信用しない、とされている。中学3年のとき、大久保の父親に強姦されたと
して兄の嫁が家を出て行った。中学卒業後、両親の農作業を手伝うが
働きぶりは怠惰。2年後、両親の強制で定時制高校に進学するが1年で
中退。この頃、のぞきで何度か捕まっている。

東京に働きに出るが、19歳で故郷に戻り、父親に金を出してもらって
ラジオの販売と修理の会社を設立するが倒産。以後、定職に就くことは
なく、親から小遣いをもらいながら、「法政大学の学生」と称し、15-28歳
の女性に毎日のように声をかけていた。

20才で女子高生(17)を強姦し、懲役1年半執行猶予3年の判決を受ける。
反省はなく、「嘘つき女に引っかからないように」誓ったという。
執行猶予中のその年、女子高生に対する強姦致傷で懲役3年半の実刑
判決を受ける。

出所してすぐの25歳のとき、24歳の女性を強姦しようとして告訴されるが、
両親が金銭で解決しようと努力し女性が告訴を取り下げたため、不起訴
になる

31歳(1966)のとき、二人の女性を強姦し4年6ヶ月の有罪。このときの供述で
警察・検察が自分の言い分を聞こうとしないことに腹を立て自暴自棄に
なった
」と述べている。刑務所の中では模範囚で4回の表彰も受けている。
1971年仮釈放され、犯罪史上に不朽の名を残すことになる。

コスチュームはベレー棒とルパシカ。画家や詩人、教師になりすまし、女性を
誘う。逮捕されるまでの73日間に127人の女性に声を掛け、35人を車に
連れ込んでいた。そして騒がれた相手には強姦、そして殺害して死体を
山中に埋めていた。合計で8人を殺害。1973年2月の一審判決に控訴せず、
そのまま死刑が確定。

女高生コンクリ詰殺人事件 平成 1年
(1989)

11月8日、A、B、Cの3人が足立区内で自転車で帰宅中の19歳の女性に
声をかけ、3人で輪姦した。
このときはAが運転するシルビアにB、Cが乗り込み、ドライブの誘いに
応じないとみるや車を横づけにして行く手をはばみ、Bが自転車の鍵を
奪って嫌がる女性を車に乗せた。逃げられないように常磐高速道路に入り、
「少年院を出てきたばかりだ」「大洗(おおあらい)に行こう。大洗の海は
寒いし、波が高いぞ」などと脅し、観念させてホテルに連れ込んだのだった。

11月25日午後6時ごろ、AはCの自宅に行き、Cに対して、「今日は給料日
だから金を持っているやつが多い。ひったくりに行こう」と誘った。
Cは友達からバイクを借りて、2人で出かけ、ひったくりをした。

午後8時過ぎ、埼玉県三郷(みさと)市内をバイクで走行中、アルバイト先から
自転車に乗って帰宅する途中だった県立八潮(やしお)南高校3年生のN子
(17歳)を見かけると、AはCに対し、「あの女、蹴れ。あとはうまくやるから」
と命じ、Cは言われた通りに、バイクでN子に近づき、左足で右腰を思いっきり
蹴って、角を曲がって様子をみていた。

N子はバランスを失い、自転車に乗ったまま転倒、側溝に落ちた。そこへ、Aが
近づき「大丈夫ですか」と声をかけ、助け起こすと「あいつは気違いだ。俺も
脅された。危ないから送っていってやるよ」と言って、近くにある倉庫の暗がり
で「俺はヤクザの幹部だ。お前はヤクザから狙われている。セックスさせれば
許してやる」と脅し、ホテルに連れ込んで強姦した。

午後10時ごろ、Aは自宅に戻っていたCに電話をかけると、そこにはBの他に
Dがいたが、Aはこの3人を外に呼び出した。その後、4人の少年たちはCの
自宅の2階のたまり場にN子を連れ込んだ。

11月28日、Aは「いいモノを見せてやる」と言って、呼び出されたE(当時17歳)
とF(当時16歳)が加わって、家人が寝静まった深夜にN子を輪姦した。
N子は必死の思いで抵抗した。階下の母親は目を覚ましたようであったが、
寝具などで顔面を押さえつけられたため、叫び声を上げることはできなかった。
さらに、陰毛の一部をカミソリで剃られ、さまざまな異物を性器に押し込まれる
などの虐待も受けた。

11月30日午後9時ごろ、Cの母親は、このとき初めてN子の顔を見ている。
Cに対し「早く帰しなさい」と言った。だが、1週間経ってもN子がいることに
気づき、直接、N子に「すぐに帰りなさい」とは言ってみるもののなかなか
帰ってくれなかった。

その後、昼夜の別なく、N子の体を弄び、そのあまりの暴行に、N子が気を
失うと、バケツの水に頭を漬けて気を取り戻させて、また犯すということを
繰り返していた。その間、交代で見張りを続けた。

12月初めの午後4時ごろ、、N子は少年たちが夜遊びで昼寝をしていた隙を
見て、2階から1階の居間に降りてきて110番に電話した。だが、運悪く、
近くで寝ていたAに気づかれてしまった。すぐに逆探知で警察からかかって
きた電話に、Aが出て「なんでもない。間違いです」と返事した。

AとBは、このことをきっかけとして、N子に対し、手荒いリンチを加えた。
殴ったり、蹴ったり、手足の甲にライターの火を押し付けたりして火傷を
負わせた。また、シンナーを吸わせたり、ウィスキーや焼酎を飲ませて
楽しんでいた。

12月5日、東京・中野駅構内で、電車の追突事故が起きた。
AはN子に「あの電車にお前の父親、乗っかっていて、死んだってテレビで
やってた。お前見たか」とからかった。N子は不安そうな表情を見せると
「どんな気分だい」と訊き、「悲しいです」と答えると「実はウソだよ」と言って
はぐらかした。こんな調子でAとB、Cの3人は「死んだ」「生きている」を
何度も繰り返し、心理的にN子を追い詰めていった。

12月10日ごろ、N子は「家に帰りたい」と言い始めた。すると、Aが
「家に帰ったら母親に何て言うんだよ」と言うと、N子は「今まで新宿で
遊んでいました」と答えた。それに対し、Aは「新宿で、学生服のまま
そんなに長く遊んでいられるかよ」と言って、殴ったり蹴ったりの暴行を
加えた。さらに、火傷の跡にライターのジッポオイルをかけ火をつけた。
熱がって火を消そうとするのが面白いと何度も繰り返した。

12月中旬、小便で布団が濡れたことを理由にBとCが殴った。果てしなく
続く殴打によってN子の顔面が無惨に腫れあがり、凸凹のない別人の
顔になった。暴行がエスカレートするのにともない、N子に与えられる
食べ物もおざなりになっていった。それは主にCの兄のG(当時17歳)の
役目であったが、監禁当初は出前を取ることもあったのに、12月末には、
一日に牛乳を1本、たまにパン1枚与える程度になっていった。
トイレにも行かせず、飲料用紙コップに排尿させられるようになり、
その尿を飲まされたりした。

N子は「なんでもするから家に帰して」と必死に哀願するが、全裸で
踊らされたり、自慰を強要され、さらに、直径3センチの鉄棒や「オロナミンC」
のビンを陰部に挿入させられた。

N子はリンチによる足の火傷が化膿して動けなくなった。全身は衰弱し、
悪臭もひどくなった。Aはその臭いが嫌だと言って、寄りつかなくなった。
少年たちはそんな状態になったN子を見て、持て余すようになっていた。
だが、解放すると警察に知らされる。いっそのこと、死んでくれればと
願うようになる。

N子がいないところで次のような会話が交わされている。
「女は殺して埋めるのかな?」「殺すならミンチがいいですよ」
「ドラム缶に入れて焼けばいい」
「コンクリート詰めにして海に棄てればバレない」
「自殺に見せかけて殺しますか? 富士の樹海で首吊りでもさせますか?」
お笑い半分、冗談半分、面白半分、暇つぶし、といった感じであった。

小泉今日子の「なんてったってアイドル」という歌のリズムに合わせて、
N子は3人に次々と殴られて、鼻や口から血を流し血だらけの状態になった。

ロウソクに火がつけられ、N子の顔にそのロウを垂らし顔をロウだらけにした。

Dは自分の手に血がつくのを嫌がり、Aがシンナーを吸ったビニール袋を
手に巻き、N子の肩や足にパンチを浴びせた。やがて、N子は身体を硬直し、
ブルブルと痙攣し始めた。
Aは1.7キロもある鉄球付きの鉄棒を持ち出すと、DはN子の腹に落とした。
Aが暴力を振るうと、今度はB、C、Dが「ウケ」を狙って、面白半分に暴力を
エスカレートさせた。Aはリンチの途中でN子の死を意識した。

午前10時ごろ、リンチが終わった。AはN子が逃げないように足を
ガムテープでぐるぐる巻きにすると、4人はサウナに出掛けた。
翌5日、死体の処理に困った少年たちは、死体を毛布に包み、旅行鞄に
入れて車に乗せ、近くの工場から盗んだドラム缶に鞄ごと入れて
セメントを流し込んだ。
その後、ドラム缶を海に投棄しようと江東区の埋立地まで車を走らせたが、
恐くなってしまい、空き地にドラム缶を投げ出して帰ってしまった。







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