【 時代背景 】
1936年(昭和11年)2月26日、陸軍の過激な青年将校たちが重臣を殺害し、首都の中枢部を4日間に渡って占拠するというわが国近代史上初のクーデターを起こしている。いわゆる2・26事件である。
こうした重苦しい時代背景の中で、世間の人々は社会の不安を吹き飛ばすような阿部定事件に飛びついた。こんな事件がなければやりきれないような暗澹たる時代で、それゆえに、当時のマスコミはセンセーショナルにこの事件のことを報じたという一面がある。【 遺体の発見 】
1936年(昭和11年)5月15日から東京・荒川区尾久1881の待合「満佐喜(まさき)」に、男と女の2人連れが居続けていたが、18日午前8時ごろ、そのうち、女だけが「水菓子を買いに行く」と言って外出し、そのまま帰って来ない。しかも、男の方がなかなか起きてこないので、不審に思った同家の女中の伊藤もとが、午前11時ごろになって2階4畳半の「桔梗(ききょう)」の間を覗いて見たところ、男が蒲団の中で惨殺されていたのである。
男は枕を窓側にして、赤い絹の腰ひもで絞殺されており、その顔にはタオルがかけてあった。蒲団の敷布には<定吉二人きり>と7〜8センチ角の楷書でしたため、男の左大腿部には血液で<定・吉二人>と書かれ、左腕に<定>と刃物で刻まれていた。さらに、男の局所が陰のうもろとも切り取られていた。これまで殺人事件は数多くあったが、男の局所が切り取られるという事件は初めてであった。
被害者の男は東京・中野区の「吉田屋」という鰻料理店の主人の石田吉蔵(きちぞう/42歳)、逃走した女は「田中かよ」と偽って同家の女中になっていた阿部定(当時32歳)であることが判明した。
【 犯行に至るまでの過程 】
1936年(昭和11年)2月1日、東京・中野区新井538で鰻屋を営んでいる「吉田屋」に女中として入った阿部定はすぐに主人の石田吉蔵と懇意になった。元々、定は好色な女であり、吉蔵もまた次から次へと愛人を作るほどの女好きであった。
最初のうちは「吉田屋」の中で妻のとく(当時43歳)の目を避けながら情痴を繰り返していたが、いずれは2人の関係が分かってしまうので、外の料亭などに泊まり込むことが多くなった。そうした情痴を繰り返しているうちに定は吉蔵を自分のものだけにしておきたいという気持ちが強くなっていった。
4月19日、定は石田と応接間で、灯りを消して関係していたところを女中に見られてしまい、妻の知るところとなった。
23日、吉蔵と定は家出して27日、多摩川の料亭「田川」へ行く。ここでは、芸者を寝床にまで呼んで酒を飲み、乱痴気騒ぎをした。定はいきなり蒲団をめくって、小さくなっている吉蔵のモノをなめては、平気な顔をしてお酒を飲み、キスしたり頬をなめたりした。
11日、その後、定はやはり、どんなことがあっても絶対に吉蔵を離したくないという気持ちがあった。2人は中野駅で落ち合い、駅前のおでん屋で酒を飲み、円タクで尾久の待合「満佐喜」へ行く。
12日、吉蔵は「首を絞めるのはいいんだってね」と定に言うと、定は「それでは絞めて頂戴」と言うので、吉蔵は関係しながら定の首を絞めたが、「何だかお前が可哀想だから厭だ」と言うので、今度は、定が上になって吉蔵の首を絞めたが、吉蔵は「くすぐったいからよせ」と言った。
15日、定は上野で肉切り包丁を買い求めている。また、この日、東京駅でパトロンの大宮五郎に会い、銀座で食事し、品川の「夢の里」で休憩し50円もらう。そのあと、吉蔵を電話で呼び出し、再び「満佐喜」へ行く。
16日、定は吉蔵に抱かれていると、吉蔵のことがとても可愛いと思うようになり、吉蔵を噛んだりしたが、定は「今度はひもで絞めるわよ」と言って、枕元にあった自分の腰ひもを手に取り、吉蔵の首に巻きつけて、両手でひもの端を持ち、定は吉蔵の上になって情交しながら首を絞めたり緩めたりした。初め、吉蔵は面白がって首を締めると舌を出してふざけたりした。定は「首を絞めると腹が出てオチンコがピクピクして気持ちがいい」と言うと、吉蔵は「お前が良ければ少し苦しくとも我慢するよ」と言った。吉蔵はそのころヘトヘトに疲れて目をショボショボさせていたので、定は「厭なんでしょう、厭ならもっと絞めるわよ」と言うと、吉蔵は「厭じゃない厭じゃない、俺の体はどうにでもしてくれ」と言った。
17日午前1時頃、寝ている吉蔵の首に細ひもを巻きつけて絞めると、吉蔵は定の偽名である「かよ」という名前を「かよ、かよ」と苦しそうに叫んだ。定もその苦しそうな声を聞くと現実に戻り、驚いてひもを解いた。首には二重の傷跡が残ってしまった。吉蔵は鏡で自分の首を見て「ヒドいことしたなあ」と言っただけで少しも怒らなかった。「お前はオレが眠ったらまた首を締めるだろう。今度、絞めるときはそのまま緩めないでくれ。ひと思いに苦しまずに殺してくれ・・・」と言ったという。
18日の朝、定は吉蔵の首を絞め、吉蔵の言った通り緩めることもなくそのまま強く絞めて殺してしまった。
吉蔵が死んだことが分かった定は自分を楽しませてくれた吉蔵の局所を切り取って自分の肌から離したくないと考えた。局所を切り取るというのは定の吉蔵に対する愛情であり、これ以上の表現はないというのが定の考えであった。
「それは一番可愛い大事なものだから、そのままにしておけば湯棺のとき、お内儀さんが触るに違いないから、誰にも触らせたくない」と、のちに供述している。
2日後の20日午後5時半ごろ、定は品川の駅前の旅館「品川館」で逮捕された。
旅館「品川館」に、臨検に訪れた高輪署の安藤刑事は、「大和田直」という偽名で投宿していた女の部屋を訪ねた。そのとき、女はビールを飲んでいた。女 「あんまりソワソワしないで、少しは落ち着いたら? あんたの 捜しているのは阿部定でしょう」
刑事 「・・・・・・」
女 「私が阿部定よ」
刑事 「からかうな、忙しいんだ」 怒ったように言って、そのまま帰ろうとする
女 「本当よ。私がお定!」
刑事 「えっ?」所持品の中にはハトロン紙で包まれた吉蔵の局所が帯の間にはさんであった。他に、吉蔵の猿股、褌、メリヤスのシャツ、刃渡り15センチの肉切り包丁があった。定は切り取った吉蔵の局所を眺めて少し舐めたり、ちょっと当ててみたりしたと、のちに供述している。
定と関係した男たちは、彼女がアクメに達すると体が震え出し、それから1時間近く失神したと一致して証言している。そのうちの1人、定の最後のパトロンであった中京商業高校の校長の大宮五郎はこの事件のため職を失うが、最初に定と関係したとき、欲情した彼女の淫水が多いことに驚いて、他の病気ではないかと問い質している。これらの点から定の精神鑑定をした東大の村松常雄教授は、彼女を先天的なニンフォマニア(淫乱症)と診断。
定は吉蔵を、死んでもいいほど愛していたが、同時に、大宮先生を非常に尊敬していて、関係を断てなかったと、のちに供述している。
【 愛のコリーダ 】
人を好きになり、愛すること。そんなあたりまえの感情が、日常や社会の制約から解き放たれて昂ぶるとき、性愛はどのような姿を見せるのか?「阿部定事件」という衝撃的な題材を扱いながら、大島渚監督が描こうとしたのは、ごくふつうの男女にも起こりえる愛の極致である。 『愛のコリーダ』は1976年のカンヌ国際映画祭で初めて上映され、凄まじい反響と絶賛の拍手に迎えられた。マスコミのみならず劇場は溢れかえり、フランス、ブラジルでは当時の興行記録を塗り替える大ヒットを記録。しかし、海外での熱狂的な支持とは裏腹に、同じ年の日本初公開当時は製作サイドとしては不本意な大幅修正が加えられたプリントでの上映となった。 |
![]() |
![]() |
安部定事件の詳細 | ||
![]() |
![]() |
|||
![]() |
![]() |
|||
![]() |