終 戦 の 詔 勅
いわゆる玉音放送、この一言で日本は滅び、再生し、新しい時代を迎えた。
http://jp.youtube.com/watch?v=1XMja7jwtV4


朕深く世界の大勢と帝國の現状とに鑑み非常の措置を以て時局を収拾せむと欲し茲(ここ)に忠良なる

爾(なんぢ)臣民に告く

朕は帝國政府をして米英支蘇四國に対し其の共同宣言を受諾する旨通告せしめたり

抑々帝國臣民の康寧を図り万邦共榮の楽を偕にするは皇祖皇宗の遺範にして朕の拳々(けんけん)措(お)かさる所

曩(さき)に米英二國に宣戰せる所以も亦実に帝國の自存と東亞の安定とを庶幾するに出て

他國の主權を排し領土を侵すか如きは固(もと)より朕か志にあらす

然るに交戰己に四歳を閲し朕か陸海將兵の勇戰朕か百僚有司の励精朕か一億衆庶の

奉公各々最善を尽せるに拘らす戰局必すしも好轉せす世界の大勢亦我に利あらす

加之敵は新に残虐なる爆彈を使用して頻(しきり)に無辜を殺傷し惨害の及ふ所眞に測るへからさるに至る

而(しか)も尚交戰を継続せむか終に我か民族の滅亡を招來するのみならす延て人類の文明をも破却すへし

斯の如くは朕何を以てか億兆の赤子を保し皇祖皇宗の神霊に謝せむや是れ朕か帝國政府をして

共同宣言に応せしむるに至れる所以なり

朕は帝國と共に終始東亞の解放に協力せる諸盟邦に対し遺憾の意を表せさるを得す

帝國臣民にして戰陣に死し職域に殉し非命に斃れたる者及其の遺族に想を致せは五内爲に裂く

且戰傷を負ひ災禍を蒙り家業を失ひたる者の厚生に至りては朕の深く軫念(しんねん)する所なり

惟ふに今後帝國の受くへき苦難は固より尋常にあらす

爾臣民の衷情も朕善く之を知る

然れとも朕は時運の趨く所堪へ難きを堪へ忍ひ難きを忍ひ以て万世の爲に太平を開かむと欲す

朕は茲に國體を護持し得て忠良なる爾臣民の赤誠に信倚し常に爾臣民と共に在り

若し夫れ情の激する所濫に事端を滋(しげ)くし或は同胞排擠(はいせい)互に時局を亂り爲に大道を誤り

信義を世界に失ふか如きは朕最も之を戒む

宜しく挙國一家子孫相傳へ確く神州の不滅を信し任重くして道遠きを念(おも)ひ総力を將來の建設に傾け

道義を篤くし志操を鞏(かた)くし誓て國體の精華を発揚し世界の進運に後れさらむことを期すへし

爾臣民其れ克く朕か意を體せよ








東京がどれだけやられていたかの証拠写真。


   生き残った人はどこから来たのか
   死体の山、戦争とはこういうものだ
   被災地を視察する昭和天皇、その胸中は・・
   
広島・長崎と比較するのは不謹慎だろうか










戦後性風俗の取り締まり 略年表


昭和21年

GHQによる「公娼廃止に関する覚書」の発令、旧遊廓と公娼制度を「赤線地帯」として残す。

昭和22年 「日本国憲法」を制定
昭和23年 「風俗営業取締法(風営法)」を公布、9月施行
昭和24年 進駐軍専用慰安施設の廃止、娼婦およびパンパンの増加、東京都「売春取締条例」を発令。
昭和25年 吉原で25年ぶりに花魁道中が復活。
昭和26年  東京銀座に「東京温泉」の開業、日本でのトルコ風呂の基礎原型となる。
昭和31年 「売春防止法」を公布
昭和33年 吉原が赤線廃業宣言、「売春防止法」施行。吉原に元赤線業者が経営するトルコ風呂「東山」開店
昭和41年  「風営法」改正によりトルコ風呂を「個室付浴場(サウナ)」として許可。
昭和53 「ノーパン喫茶」の誕生
昭和57 素人の売春が流行、「愛人バンク」などの新しい買春システムが登場。
昭和60 新風営法施行。「トルコ風呂」が「ソープランド」に改称。
昭和63 ダイヤルQ2の登場。
平成3 ブルセラショップ登場
平成6 ホテトル、テレクラの増加、宮沢りえの写真集からヘアヌード写真が本格的なブームになる。
平成7 女子中高生によるデートクラブの増加売春の低年齢化。
平成8 イメージクラブ、SMクラブ流行女子中高生のいわゆる援交ブーム。
平成12 児童買春、その周旋・勧誘、児童ポルノの販売、等に関わる者への処罰が定められる。
平成13 「新風営法」改正によりテレクラの規制強化。
平成17 東京都迷惑防止条例の改正。客引き行為の規制、営業禁止区域の強化、スカウト行為の禁止等。




たったこれだけの年表を見て一目瞭然でわかることは

風俗と取締りの追っかけっこである。

この世に男女の性別がある限り、絶対に売春がなくなる

ことはない。取締りの当局としても、これで売春が根絶

できるとは考えていなかったであろう。このいい加減さは

パチンコが賭博ではないという論理と同じである。










封 印 さ れ た 戦 後



星 の 流 れ に

作詩 清水みのる  

作曲 利根一郎

昭和22年

1 星の流れに 身を占って

  何処をねぐらの 今日の宿

  荒む心で いるのじゃないが

  泣けて涙も 涸れ果てた

  こんな女に誰がした

 

 

2 煙草ふかして 口笛吹いて

  当もない夜の さすらいに

  人は見返る わが身は細る

  街の灯影の 侘びしさよ

  こんな女に誰がした

 

 

3 飢えて今頃 妹はどこに

  一目逢いたい お母さん

  唇紅哀しや 唇かめば

  闇の夜風も 泣いて吹く

  こんな女に誰がした


 売春防止法の施行は昭和33年である。

 その頃まで、東京の町のあちこちにはまだ昔ながらの古い遊廓の

匂いが残っていた。

 売春そのものは、当時から禁止されていたのだが、警察の地図を見ると、

その一角だけ赤鉛筆で囲ってある。一種の黙認区域で、いわゆる赤線地帯と

呼ばれた由来だった。

 遊廓ではないが、同じような売春宿は戦後の新興歓楽街にも乱立して、

こちらは赤線に対して青線と呼ばれ、やはり取締りの対象外になっていた。

 東京では吉原、玉の井、新宿二丁目、小岩の通称鳩の町。青線なら池袋、

亀戸、錦糸町界隈、それに有楽町ガード下の街娼など…。

 それは決して浮世絵を見るような華やかな社交場ではなく、実態は、

戦争で傷ついた女たちの吹き溜まり。陰惨で生々しい人肉市場だった。

 そこには戦争に負けようと、あたりが焼け野原になろうと、何がなんでも

生きていかなければならない女たちの、したたかな強さと悲しさが交錯していた。

 こうした赤線や青線といった言葉は、いまでは遠い過去の死語になって

しまった。記録もなく、現実に赤線を体験した人も次第に少なくなって、

終戦後僅か十年に満たないこの時代の売春風俗の実態は、ほとんど

闇の中に沈められたまま、やがて消え去ろうとしている。

 いわば、従軍慰安婦や満州残留女性の問題と同様、敗戦後の日本が抱えた

便壷のような恥部だったのである。

 あえて書き加えておくが、原爆の惨禍を語り伝えようという声はあっても、

この時代に日本の女たちが味わった苦しみや悲しみを後世に残そうとする

記録はほとんど存在していないといってよい。

男たちを死地に追いやるための精神昂揚剤として大量生産され、敗戦で使い道の

なくなったヒロポンを、町の薬局で自由に販売するのを黙認していた政治、米軍用の

慰安婦を新聞紙上で公然と募集していた事実、みな口を拭って知らぬ顔の

半兵衛を決め込んでしまった。

恥はかき捨て、都合の悪いことはみんな忘れてしまえ、歴史とは、政治とは、かくも

身勝手でいい加減なものなのである。
http://www.youtube.com/watch?v=auHjP8BAis4




 9月3日「読売報知新聞」 急 告

特別女子従業員募集

衣食住及高給支給前借ニ応ズ

地方ヨリノ応募者ニハ旅費支給ス

東京都京橋区銀座七ノ一

     特殊慰安施設協会
電話銀座○○○○○○○番

9月16日「山形新聞」 急 告

芸妓三千名(進駐軍慰安)

経験者優遇、無経験者ニテモ可、
乗車券及転入手続ハ協会ニテ
便宜ヲ与ス 

東京都京橋区銀座七ノ一

特殊慰安施設協会
        全国芸妓屋同盟会

9月26日「新潟日報」 新女性ヲ求ム

国際親善国民外交ノ第一線に立ツ
溌剌タル新女性を求ム

最高収入、衣食住給与 

東京都京橋区銀座七ノ一

特殊慰安施設協会       
           キャバレー部






パンパン狩り 娼婦と浮浪児

進駐軍専用施設 日本人向けの売春宿

有楽町ガード下 映画「赤線地帯」より


パンパンは二十年の末までに東京だけで三千人、翌二十一年春の警視庁調べでは五千人で、
実際はその二、三倍といわれ、全国では六万人を数えた。しかも、政府の肝いりで設立された
進駐軍兵士相手の特殊慰安施設RAAで働く女性が七万人もおり、彼女らも「パンパン」と
呼ばれたので、パンパンの総数は十三万人にも達したことになる。


進駐軍兵士相手のパンパンは日本人相手の女たちより日本人から蔑まれた。
「アメちゃんのパンパン」とか「オンリー」というのは当時の最大の蔑称だった。立川基地で
パンパンをやっていた過去を知られたくないために殺人を犯した女を主人公にした小説に
松本清張の『ゼロの焦点』がある。

当時、混血児(ハーフ)を産んだ女性たちは疫病神のように嫌われた。混血児は敗戦の象徴だった。



戦後の赤線風俗小説
戦後復興した売春宿、母と娘の数奇な運命と、その凄まじい性の闘い

鬼 の 宿 (1) 戦後シリーズ第一弾、薄幸の母娘が辿る汚辱と肉慾の数奇な運命
鬼 の 宿 (2) 弄ぶ男の前で、虐げられ辱められても反応する哀しい女の肉体
鬼 の 宿 (3) わが子を犯された母の悲愴な半生。実在した遊郭萬古楼の物語

赤 線 く ず れ まるで弄ばれるために生れてきたような、ある売春婦の哀しい最後

家出娘と 裏芸人 輪タク・ポン引き・エロ写真。上野駅には家出人専用の交番まであった

屋根裏 の 淫 売 病気の母親の枕元で客を取る少女売春婦の虐げられた青春恨み節

遊 女 のエレジー 男にまみれて感覚を失った娼婦が、アナルセックスで初めて感じた





闇市と戦災孤児


撮影・林忠彦

            孤 児 総 数   123,511人

           内    訳

   年 齢 構 成 (年齢は数え年)

 戦災孤児    28,248人(23%)
 引揚孤児     11,351人( 9%)
 一般孤児    81,266人(66%)
 棄迷児      2,647人( 2%)

 1〜3歳    1,273人( 1.1%)
 4〜7歳   13,213人(10.7%)
 8〜14歳  57,731人(46.7%)
15〜20歳  51,294人(41.5%)

    合  計      123,511人

  合 計  123,511人

たった12万人??  昭和22年厚生省調査
   

『事件と上野駅』
昭和20〜23年頃
*傷害事件多発、多いときは日に6人死傷。餓死者1日1名以上、多い日は1日6名。
*上野で闇米の買い出し取り締まり、3600名摘発。

『ノガミの時代と上野駅』
戦争が終わり新たな生存のための闘いが始まった。上野駅からの”買出し列車には壊れた窓にも屋根にも人が鈴なりになった。米は統制品で、買出し米は帰りの車中や駅で臨検にあえば没収である。そんな危険を冒しても、人々は腹巻きに米を縫い込んで身につけたり、水筒の中に入れたりしながら米を持ち帰った。米を取り替えるための商品を売る”ヤミ市”が上野から御徒町にかけて出来た。昨日のヘルメットは今日は鍋になる。ごった煮の釜には時にゴム製品まで入っていた。そして戦争は、家のない人、両親を空襲で亡くした浮浪者をたくさん生みだし、上野駅の地下道やその周辺はそうした人々の寝ぐらになった。「ノガミ」といえばヤミ市、浮浪児、パンパン、というこの連想が今も消えることがない。

6月×日 火曜日 曇 第一当番
(カモにされる家出少女)
地下道警備派出所からここ駅前派出所に配置換えになって半月、地下から這い出たモグラのようなもので、地上の喧噪にとまどっている。
午後一時過ぎ地下道入口で蹲(うずく)まっていた少女を発見、尋問に答えようとしないので事情ありと察して派出所に任意同行。漸く答えた最初の言葉は「処女を奪われた」...。泣き伏す少女を宥め宥め聞くと年は十七、一昨日会津若松から家出、上野駅でうろついていた所を年増女から「いい仕事を見付けてやる」と誘われ付いて行くと、三十歳位の皮ジャンバーの男が待っていて、胴巻きから百円札を鷲掴みして年増に渡した。年増が姿を消すと男は付いて来いと促したので、何処か店で働かせてくれるものと思って付いて行くと、裏通りの旅館へ連れ込まれた。体を汚され今さら家には戻れない、いっそ死のうかと考えていたところを発見されたという。
この界隈には東北から家出娘を狙って網が張られている。彼らにはカモと一目でわかる。年増とぐるになり餌食にするのだ。この少女もまんまと網にかかった。夜のズベ公と呼ばれる不良少女の殆どは、この手にかかって転落している。警察に保護されるのは九牛の一毛でしかない。少女よ、会津若松は白虎隊を生んだ由緒ある土地ではないか。気を取り直して帰るんだ。母親がきっと味方になってくれるから。そう説教して本署少年係に同行。喫茶店から”湯の町エレジー”が流れていた。
長崎の原爆で両親を失った十五歳の少女が、大阪、名古屋と流転の果てに上野に辿り着き、保護されたのも地下道入口である。此処は転落と保護の岐路のように思える。
『昭和23年夏.上野駅前交番...警官日記より...清水 光雄』


日本に於ける闇市とは第二次世界大戦後、占領下の日本で成立した独特の商業形態のことである。

引揚者、罹災者、愚連隊などが焼跡を不法に占拠してバラック建ての店を構えていたもの。


終戦直後の日本では、空襲や建物疎開による焼跡が存在した。兵役からの復員や、外地からの

引揚げなどで都市人口は増加し、統制経済下にあって、家々から持ち出された日用品、農家から

野菜や穀物などの食料品、工場から持ち出された製品などが持ち込まれ、配給制度を通らない

非合法ルートを通ってきた品物を扱う市場が成立した。価格は法外に高く販売された。


庶民はどうしても必要なものはそこで手に入れるしかなく、品物は飛ぶように売れた。

闇市は日本各地に発生し、東京では特に尾津組が仕切っていた新宿東口から新宿通りに成立した

マーケットが知られる。

闇市は土地の不法占拠にあたり1947年(昭和22年)に閉鎖指導されたが、警察は闇市を事実上

黙認していた。


現在闇市のほとんどは繁華街となっており、かつての面影はない。

ごく一部の地域にかつての闇市を思わせる一角が残っている





闇市と性風俗の実態小説


人妻、未亡人、女子学生、1000人の女を犯した男の愛と欲望の物語

青いリンゴの唄 (1) 戦後シリーズ第二弾、16才の未熟な肉体を蹂躪する凄惨な調教実録
青いリンゴの唄 (2 処女無惨! 幼い肉体を引き裂かれた少女に苛酷な調教が続く
青いリンゴの唄 (3) 身売りする女に容赦ない責め、いたいけな美少女売春婦の誕生

幼 女 ち ど り の 場 合 迷い込んできた薄幸の少女は、まだ毛も生えていない身体だった

最 低 年 齢 の 女 おそらく12才、終戦直後の闇市で私が経験した最年少の娼婦である

闇 市 の 女 占 い 師 闇市の片隅でひっそりと生きる女占い師の内幕と意外な人間関係

戦 後 レ イ プ 事 情 闇市に形見の指輪を売りに来た女を強引に犯す。和姦と強姦の限界

ああ、上 野 駅 家出娘を狙う狼と、その餌食になった少女を抱いた淫靡な体験











歌は世相を反映する。当時の流行歌は今で言うヒット曲などと言うものの比ではなかった。

テレビもなく、DVDなど存在しなかった時代に、日本中が同じ歌を歌い、同じ涙を流したのである。

そのうちの代表的なものをいくつか残しておくことにする。




リ ン ゴ の 歌  
作詞・サトウハチロー  作曲・万城目 正




1.赤いリンゴに 口びるよせて
  だまってみている 青い空
  リンゴはなんにも云わないけれど
  リンゴの気持ちは よくわかる
  リンゴ可愛や 可愛やリンゴ

3.朝のあいさつ 夕べのわかれ
  愛しいリンゴに ささやけば
  言葉は出さずに 小くびをまげて
  明日もまたねと 夢みがお
  リンゴ可愛や 可愛やリンゴ


2.あの娘よい子だ 気立のよい子
  リンゴよく似た 可愛い娘
  どなたがいったか うれしい噂
  軽いクシャミも とんで出る
  リンゴ可愛や 可愛やリンゴ
4.歌いましょうか リンゴの歌を<
  二人で歌えば なおたのし
 皆で歌えば なおなおうれし
  リンゴの気持ちを 伝えよか
 リンゴ可愛や 可愛やリンゴ




http://jp.youtube.com/watch?v=Kv0j_jZ-7nQ
焼け跡の虚脱状態のなかで,「リンゴの歌」が大ヒットした(戦後のヒット歌謡曲第1号)。
平易な歌詞と軽快なリズムを松竹歌劇団出身の並木路子が明るく歌いあげた。

この歌は,1945(昭和20)年10月10日に封切られた戦後映画第l作目となった「そよかぜ」の
主題歌であった。映画の内容は楽屋番の母親の手伝いをしていた少女(並木路子)が楽団員たちに
助けられながら歌手になっていくという一種のスター誕生物語。映画はヒットしなかったが,
主題歌は大ヒットした。

「りんごの気持ちはよくわかる」という歌詞とネアカのメロディーが,虚脱状態の日本人の気持ちを
とらえたのである。この歌がラジオで初放送されたのは,同年12月10日芝・田村町の
飛行館スタジオでのNHKの公開番組『希望音楽会』。このとき並木は小脇にリンゴの入ったカゴを
抱えて客席に降り,リンゴを配りながら歌ったが,リンゴの奪い合いで会場が大騒ぎになったのは
有名なエピソード。この歌は暗く辛い戦争の時代をくぐり抜けてきた人々の安堵的解放感にマッチして
大流行したというのが定説になっている。人々は,やり切れなく暗い,そして生きることさえ因難な
状況から脱出したいという願望をこの歌に託したのであろうか? 












鐘 の 鳴 る 丘

(「とんがり帽子」)

菊田一夫作詞・古関裕而作曲

(1) (2) (3)

緑の丘の 赤い屋根

とんがり帽子の 時計台

鐘が鳴ります キンコンカン

メイメイ仔山羊(こやぎ)も 鳴いてます

風がそよそよ 丘の家

黄色いお窓は おいらの家よ

緑の丘の 麦畑

おいらが一人で いる時に

鐘が鳴ります キンコンカン

鳴る鳴る鐘は 父母(ちちはは)の

元気でいろよと いう声よ

口笛吹いて おいらは元気

とんがり帽子の 時計台

夜になったら 星が出る

鐘が鳴ります キンコンカン

おいらはかえる 屋根の下

父さん母さん いないけど

丘のあの窓 おいらの家よ



(4)

おやすみなさい 空の星

おやすみなさい 仲間たち

鐘が鳴ります キンコンカン

昨日にまさる 今日よりも

あしたはもっと しあわせに

みんな仲よく おやすみなさい

川田正子・森の木児童合唱団






東 京 ブ ギ ウ ギ   

鈴木 勝 作詞
服部良一 作曲





東京ブギウギ リズムうきうき
心ずきずき わくわく
海を渡り響くは 東京ブギウギ
ブギのおどりは 世界の踊り
二人の夢の あの歌
口笛吹こう 恋とブギのメロディー
燃ゆる心の歌 甘い恋の歌声に
君と踊ろよ 今宵も月の下で
東京ブギウギ リズムうきうき
心ずきずき わくわく
世紀の歌心の歌 東京ブギウギ
(ヘイ)

さあさブギウギ 太鼓たたいて
派手に踊ろよ 歌およ
君も僕も愉快な 東京ブギウギ
ブギを踊れば 世界は一つ
おなじリズムと メロディーよ
手拍子取って歌おう ブギのメロディー
燃ゆる心の歌 甘い恋の歌声に
君と踊ろよ 今宵も星を浴びて
東京ブギウギ リズムうきうき
心ずきずき わくわく
世界の歌楽しい歌 東京ブギウギ

ブギウギー陽気な歌 東京ブギウギ
ブギウギー世紀の歌
歌え踊れよ ブギウギー



出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

東京ブギウギは、鈴木勝の作詞、服部良一の作曲、笠置シヅ子の歌唱により、1947年発表されて

ヒットしたブギのリズムによる日本の歌謡曲であり、「青い山脈」「リンゴの唄」などと並んで、
戦後の日本を象徴する曲として有名である。

東京ブギウギが最初に歌われたのはそれ以前の9月、大阪の梅田劇場でのことであった。
作曲した服部は、電車に乗っている時レールのジョイントの音と吊革の網棚の淵に当たる音から
インスパイアされ、急ぎ駅を降り飛び込んだ喫茶店のナプキンに書いた。

懐かしの舞台映像を見たい方はこちらからどうぞ
http://jp.youtube.com/watch?v=V88vB5hBWyg







肉 体 の 門


田村泰次郎原作・「肉体の門」は、敗戦後の日本に生まれた

初めてのSM小説であった。


あらすじ

昭和二十一年、焦土と化した東京。公衆便所の中で恐怖に震える少女ボルネオ・マヤを二人のGIが襲う。
それは、終戦直後の凄惨な日本を象徴するかのような姿だった。

戦争孤児であったマヤは、街娼のお六と知り合う。マヤの頼みを聞いてお六は、仲間のせんや美乃のいる
地下室へ彼女を案内する。闇市で客引きに余念のないお六たちと一緒に、マヤの体を張った必死の生活が
始まった。良家の奥様を思わせる町子も仲間の一人だったが、三角を恋し、ただで抱かれてはいけない
というお六らとの掟を破っていることもあって、別行動をとることが多かった。

雨の降る日、ずぶ濡れになった伊吹が地下室へ倒れ込むように降りて来た。彼はGIに犯されるマヤを
傍観していた一人だった。それから伊吹の地下室暮らしが続く。伊吹に憧れ、仲間の統制が乱れることを
恐れたせんは、伊吹に出ていくように頼みながらも、自分も彼の恋の虜になっていることを痛感させられる。
数日後、暫く留守にしていた伊吹は牛を連れて帰って来た。湯気をたてて煮える牛肉をついばむマヤたちの
笑い声が、地下室に響き渡る。その晩マヤは伊吹を廃船に誘い、愛を告白すると、彼に強く抱かれ、
激しい愛撫をうける。突然銃声が響く。伊吹と間違えられた船頭の古田がMPに打たれた。伊吹はマヤらへの
迷惑を考え、彼女のもとを去っていった。掟を破って吊されたマヤを、お六は救ってやると、多量の血を吐き、
息をひきとった。泣きながらお六の血を集め、シーツに日の丸を描くマヤの手が、淋しく震えていた。

復員兵の帰還を知らせる新聞を見る美乃の目が輝いた。美乃はせんと別れると、許婚者が到着する駅へ向かって
駈けだした。マヤも、愛する伊吹を追って、歩きはじめるのだった。















<<ソープランドの歴史>>


ソープランドとは、風呂のある個室で女性(ソープランド嬢、ソープ嬢)が男性客に対し性的なサービスを提供する
「個室浴場」のことで、いわゆる風俗店の一種です。
省略してソープと言うことも多く、風俗の王様と言われることもあります。

ソープランドは以前、トルコ風呂(略して「トルコ」)と呼ばれていました。
古くは、1932年に発表された小説 『上海(横光利一)』 に、「トルコ風呂」についての記述があります。
女性がマッサージをする蒸し風呂が当時の上海にあり、日本でも知られていました。
もともと中東地域の伝統的な公衆浴場(ハマム)は蒸し風呂(スチーム・サウナ)で、中では垢すりのサービスが行われていて、
これが20世紀初頭まで中東随一の大国であったトルコの名前で日本に紹介されたものとみられます。

もっとも、中東では男性客には男性、女性客には女性の垢すり師がつくのが原則です。

日本で初めて「トルコ風呂」と呼ばれる個室浴場の店舗が誕生したのは1951年4月1日、東京都東銀座に開店した東京温泉です。
経営者は現代史の怪人とも呼ばれる許斐氏利で、射撃の日本代表選手として海外渡航した際にスチーム・サウナに感動し、
日本初の「トルコ風呂」を開業したといいます。
これはサウナ施設がメインで、女性がマッサージサービスを行うものでした。
無論、女性は着衣であり、性的なサービスも厳禁とされていました。

しかし、個室であることから業者の一部はしだいに性的なサービスを行うようになっていきました。
1958年、売春防止法の施行により赤線は廃止され、吉原ではさっそく「トルコ風呂」に転向する店もありました。

こうした「トルコ風呂」では、手を使って男性器をマッサージし、快楽に導く「スペシャルサービス(おスペ)」が行われ、やがてひそかに
「本番サービス(性交)」も行われるようになりました。

また、滋賀県大津市の雄琴温泉にソープランド街が完成した1970年代前半から、ビニールマットを使用した「泡踊り」という特殊な
サービスが開発されて人気になり、男性向け週刊誌などマスコミでも盛んに取上げられるようになりました。

トルコ風呂が性風俗店の名称として大衆化されるとともに、主に日本に在住・滞在するトルコ共和国出身者の間で、日本のいかがわしい
店舗に自国の名称が使われていることに対する反発がつのっていきました。

1984年、日本(東京大学)で地震学を学んでいたトルコ人留学生ヌスレット・サンジャクリが当時の厚生省に名称変更を訴え出たことが
発端となり、この問題は広く公になりました。
そこで、厚生省に指導を受けたトルコ風呂の協会である「特殊浴場協会」が「トルコ風呂」に代わる名称を公募して、1984年12月19日、
全国的に「ソープランド」と改称しました。



あるソープ嬢の面接記録

「あの、求人広告を見て電話したんですけどそちらで働きたいと思って……」

 私は緊張して声がこわばっていました。

「それでは一度面接に来てくれますか? 履歴書と身分証明できるものを持って来て下さい。いつがいいですか?」

「じゃあ、明日のお昼2時頃」

 電話を切った後も心臓の音がドキドキ大きく聞こえていました。

 私はすでにお父さんの手のうちから離れて、欲望を丸出しにして突っ走ろうとしていたのです。もっともっと男のおもちゃになって

気持ちも体もズタズタになったら、お父さんは私のことを今までよりも愛してくれるだろうと思っていたのです。

 次の日、私は履歴書と身分証明になるパスポートを持って歌舞伎町のソープ『B』へ出かけました。どうして吉原にしなかったかというと、

私の住んでいる高円寺からは少し遠かったし、ソープランドが百軒以上も並ぶ昔ながらの町は私のような新人を受け入れてくれないだろうと思ったからです。

 その店の前に着くとさすがに足がすくんでしまいました。玄関口で客の呼び込みをしているボーイがうちの店の女じゃないな、と私の顔をちらっと見ました。

「あの私、面接を受けに来たんですけど」

 と言うと店の中に案内してくれ、フロントに座っている店長のところまで連れて行かれました。

「昨日電話した者ですが、あの……」

「ああ覚えてるよ。ちょっとあっちの部屋で待っててくれるかな」

 と言って、店長は愛想笑いをしました。通された部屋は薄暗く、初めて目にするものばかりでした。エアマット、スケベ椅子、固くてちゃちな造りのベッド、

折りたたんで積み上げたたくさんのバスタオル、どこのソープにもあるけど使った試しがないスチームサウナ……

 やけに礼儀正しいボーイが持ってきてくれたコーヒーを飲みながら、待っている間私は部屋じゅうを見廻し落ち着かない気持ちを静めていました。

 10分、20分、時計の針が気になります。女の人の明るい笑い声が聞こえて来ました。私は意外に思いました。こういうところで働いている女の人は

ヒモがいたり借金があったり、暗い過去をひきずっている、という偏見を持っていたのです。実際に私が友達になった彼女たちは、努めて明るく振舞いながらも

多少卑屈なところがありました。

 もしかして私は、ただお金のために働く彼女たちと比べて幾分か甘えがあったのかもしれません。ソープで男のおもちゃになってもお父さんは

可愛がってくれるだろう、そして私が性病にかかっても看病してくれるだろうと思っていたからです。

 30分程して小柄でちょっと気どった感じの店長が入ってきました。

「ごめんね、待たせて。さっそくだけど履歴書持ってきた?」

 と事務的な口調で言うと、タバコに火をつけて私の顔や体つきを見つめました

「はい、これです」

「キミって大学生なんだ、珍しいなあ。ラクして金稼げると思ってるのかもしれないけどでもこの仕事は厳しいんだぞ」

「分かっています、頑張りますから」

 そう言うと、それ以上は詮索してきませんでした。

「今日これから時間あいてるんだったら講習しよう。ちょうど今日は専務が来てるし、彼だったら教えるのがうまいし」

 『講習』って何だろう? 分からないまま私は素直にうなずきました。

 やがて大阪弁なまりの専務がやって来て別の部屋に連れて行かれました。

「こういう仕事は初めてなのか?」

「そうです、全く経験ありません」

「それじゃあ最初から全部教えてやるから体で覚えるんだぞ」

 私は裸にさせられました。専務も裸に成りました。

 ボーイが客を部屋に案内してきたら、三つ指をついて『いらっしゃいませ』と言う事、客の服を丁寧に脱がせてやる事、湯ぶねにお湯を入れている間も

手を休めず即尺の奉仕をする事、それから風呂場のスケベ椅子に座らせる。

 ソープ嬢の仕事って想像してた以上に体を使うんだなあ、と思いました。不特定多数の男の奴隷になって彼らの性欲を満たしてあげるのです。

一日に5人も6人もの精液を私のアソコで受けとめるのです。確かに体は疲れるけれど、とても充実して私には天職のように感じられました。

 マット洗い、潜望鏡、椅子洗い、ひと通り教えてもらってもすぐにはうまくいきそうにありません。  

「最初は無理でも客をとって次第に覚えていくよ」

「ええ、そうだと思います」

 お風呂場でのプレイが終わって、雑談しながらジュースを飲んで一休み。それからベッドテクニックの教授です。

 ベッドに寝かされ、専務が一方的におっぱいやクリトリスをさわったり舐めたりしてきたから、私は開放的になってあえぎ、されるがままでした。

他の部屋に私の声がもれるのが心配で専務は私の口をふさぎました。奉仕することを忘れて、専務のモノを受け入れて腰を動かしていました。

 その時専務は、客が喜ぶ体かどうか私の感度を調べていたのでしょう。

 約4時間の講習でした。

「明日はもう一度おさらいしてから、働いてもらうから」

「はい、よろしくお願いします」

 と言って店を出たのが夕方7時でした。

「今、面接が終わったの」

「どうだったかい」

「……うん、明日も行くつもり。今、靖国通りから電話してるの」

「これから迎えに行ってやるよ、しばらく待ってろ」

 人通りのはげしい歌舞伎町、明日から私はこの街で働く女になる。ソープ嬢になっても今までと同じように愛してくれるかしら? 

そんな事を考えながらお父さんの車を待っていました。

 緊張から解き放たれて見上げると、すっかり日が暮れて派手なネオンサインがまぶしく光っていました。

 














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2007.02.28


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